第4話
翌朝、わたくしは夜明けと共に身支度を整えると、迷いのない足取りで父の書斎へと向かった。
扉をノックすると、夜通し今後の算段を練っていたのであろう、疲れと興奮が入り混じった父の声が「入れ」と応じる。
「リリアーナか。どうした、こんなに朝早く」
「お父様、昨夜のお話の件ですわ。ゼオン・ディ・アルジェント公爵様からのご縁談、謹んでお受けいたします」
わたくしがはっきりとそう告げると、父は書類の山から顔を上げ、満足げに深く頷いた。
「うむ。賢明な判断だ。すぐに公爵家へ受諾の使者を送ろう。ああ、忙しくなるぞ! 我がエーデルシュタイン家の歴史が、今日この日から塗り替えられるのだからな!」
父は既に、王家をも超える権勢を手に入れたかのように上機嫌だった。
わたくしの胸の内にある、前世からの魂の繋がりや、記憶を取り戻したいという切実な願いなど、父にとっては些末なことなのだろう。
それでも構わない。今は、父の欲望ですら、わたくしが彼のもとへたどり着くための追い風になるのだから。
使者がアルジェント公爵の滞在する屋敷へ向かってから、わずか一時間後のことだった。
応接室で父と今後の打ち合わせという名の皮算用を聞かされていると、執事が慌てた様子で駆け込んできた。
「だ、旦那様! アルジェント公爵様が、お嬢様にお目にかかりたいと、たった今お見えになりました!」
「なにっ!? もう来られたのか!」
父の驚きももっともだ。貴族間のやり取りとして、あまりに迅速すぎる。まるで、わたくしの返事を門前で待ち構えていたかのようだ。
その行動の早さに、彼の想いの強さが表れているようで、わたくしの胸は期待に高鳴った。
応接室に通されたゼオン公爵は、昨日と同じ漆黒の礼装に身を包んでいた。しかし、夜会で見た時のような近寄りがたい冷徹な雰囲気はなく、その銀色の瞳はわたくしを見つけると、穏やかな光を宿した。
「リリアーナ。君の返事を聞いた。……感謝する」
父や侍女たちがいるのも構わず、彼はまっすぐにわたくしの元へ歩み寄り、その手を取った。彼の大きな手に包まれると、不思議と心が安らぐ。
「公爵様、こちらこそ、身に余るお申し出に感謝いたします」
「ゼオンと呼んでほしい。我々は、もうすぐ夫婦になるのだから」
そう言って、彼は悪戯っぽく微笑んだ。その、年相応の柔らかな表情に、心臓が大きく跳ねる。
帝国の英雄、氷竜公などと呼ばれる彼にも、こんな顔があったのか。そして、この顔を、わたくしは知っている気がした。
「……ゼオン、様」
彼の名前を呼ぶと、彼は満足げに目を細めた。
その親密な雰囲気に、父ですら口を挟むのをためらっている。
「少し、二人だけで話をさせてもらえないだろうか。エーデルシュタイン侯爵」
「は、ははっ! もちろんですとも! さあ、リリアーナ、公爵様を庭園へでも案内して差し上げなさい!」
父に促されるまま、わたくしはゼオン様と二人、陽光が降り注ぐ中庭のテラスへと向かった。
白いテーブルと椅子が置かれたテラスは、色とりどりの薔薇に囲まれている。甘い香りが風に乗って、心地よく鼻をくすぐった。
「君の家の薔薇は、見事だな」
「ありがとうございます。……わたくしが、手ずから世話をしているのです」
「知っている。君は、昔から花を愛でるのが好きだった」
まただ。
彼は、ごく自然に、わたくしの知らない『わたくし』について語る。
わたくしは、覚悟を決めて、ずっと聞きたかったことを口にした。
「ゼオン様。……昨夜、夢を見ました」
その言葉に、彼の銀色の瞳が、わずかに見開かれる。
わたくしは、夢の内容を――燃える城、騎士の姿の彼、引き裂かれる別れ、そして『来世で必ず見つけ出す』という彼の言葉――を、ありのままに話した。
話しているうちに、夢の中の絶望が蘇り、声が震える。
わたくしの話を、ゼオン様は黙って聞いていた。
その表情は、どこまでも真剣で、そして深い悲しみを湛えているように見えた。
「……そうか。思い出し、始めているのだな」
全てを聞き終えた彼が、ぽつりと呟いた。それは、否定の言葉ではなかった。
「では、あの夢は……本当に?」
「ああ。君と私が、前世で体験した、最後の日の記憶だ」
彼の肯定に、息を呑む。
やはり、ただの夢ではなかったのだ。
胸の痛みと、彼への懐かしさ。その全てに、説明がついた。
「我々は、かつて存在した小国の王女と、その護衛騎士だった。政略結婚を嫌った君が城を抜け出した先で、偶然出会ったのが始まりだったな」
懐かしむように、彼は語り始める。
彼の言葉を聞いていると、断片的な映像が頭の中に浮かんでは消えていく。
森の中の泉。初めて彼と会った日のこと。身分を隠したまま、何度も逢瀬を重ねたこと。互いに惹かれ合い、愛を誓ったこと。
「だが、幸せは長くは続かなかった。我々の国は、隣国の侵略を受け、一夜にして滅びた。……あの夢の通りだ。私は、君を逃すのが精一杯で……君を守り抜くという誓いを、果たせなかった」
彼の声には、今もなお消えない、深い後悔が滲んでいた。
その痛みが伝わってきて、わたくしは思わず彼の手に自分の手を重ねていた。
「……ゼオン様は、全て覚えていらっしゃるのですか? 転生してから、ずっと?」
「そうだ。前世の最期に、君の魂を見つけ出すと誓ったからな。その執念が、記憶を繋ぎ止めたのだろう。……長かった。君の魂が、この世に再び生を受けるまで、五百年という時が流れた。そして、君を見つけ出すまでに、さらに十八年」
五百年。
その、想像もつかないほどの永い時間、彼はたった一人で、わたくしとの約束だけを胸に生きてきたというのか。
その孤独と、わたくしへの想いの深さに、胸が締め付けられる。涙が、また溢れてきた。
「泣かないでくれ、リリアーナ。やっと、こうして君に会えたのだから」
彼はそう言って、優しくわたくしの涙を拭う。
しかし、その瞳の奥には、喜びだけではない、別の感情が渦巻いているのが見えた。憂い、そして、強い警戒心。
「ゼオン様? 何か、心配事でも……?」
「……全てを思い出すことは、君にとって、辛い記憶を呼び覚ますことにもなる。そして、我々の悲劇は、まだ終わってはいないのかもしれない」
「どういう、意味ですの?」
わたくしが問い返した、その時だった。
庭園の入り口の方が、急に騒がしくなった。制止しようとする使用人たちの声を振り切って、テラスにずかずかと入ってくる人影がある。
「リリアーナ! ここにいたのか! それに、アルジェント公爵も……!」
そこに立っていたのは、信じられないことに、クラヴィス殿下だった。その隣には、不安げな表情を浮かべたミア嬢もいる。
殿下は、わたくしとゼオン様が手を重ね合っているのを見ると、その顔を醜く歪ませた。
「どういうことだ、リリアーナ! 父上から聞かされたぞ! アルジェント公爵と婚約したというのは、本当なのか!?」
「ご覧の通りですわ、殿下。わたくしは、ゼオン様の妻になります」
わたくしが毅然として答えると、殿下は信じられないというように目を見開いた。
「馬鹿な! 私に捨てられたばかりのお前が、なぜ……! これは、私への当てつけか!? それとも、公爵、あなたがこの女を唆したのですか!?」
嫉妬と焦燥に駆られた、見苦しい詰問。
その時、それまで黙っていたゼオン様が、静かに立ち上がった。その身体から放たれる威圧感に、クラヴィス殿下がたじろぐ。
「――唆した、だと? 聞き捨てならないな、クラヴィス王子。私が、愛する女性を妻に迎えたいと願うことに、何か問題でも?」
「あ、愛する……!?」
ゼオン様の堂々とした宣言に、殿下は言葉を失っている。
ゼオン様はそんな彼を一瞥すると、懐から小さなベルベットの箱を取り出し、わたくしの前に差し出した。
「リリアーナ。これは、我々の婚約の証だ」
箱を開けると、中には息を呑むほど美しい指輪が収められていた。
大粒のダイヤモンドの周りを、銀色の金属が、まるで茨のように繊細な細工で取り囲んでいる。そして、その茨のデザインに、わたくしは見覚えがあった。
(……夢で、彼が最後に握らせてくれたもの……)
確証はない。けれど、直感が告げている。
これは、わたくしたちの魂を結びつける、約束の品なのだと。
ゼオン様は、呆然とするクラヴィス殿下など意にも介さず、その指輪をそっとわたくしの左手の薬指にはめてくれた。
指輪が、寸分の狂いもなく、わたくしの指に収まる。
その瞬間、指輪のダイヤモンドが、陽光を受けて、一際強く、虹色の輝きを放ったのだった。




