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秘密の泉

 向日葵様の積極的な仕掛けは、これ以降も続いた。彼女はいつになく素直に皆さんのことを褒めたり、必要とするものだから、初めは若干気味悪がっていた皆さんだったが、決して悪い気もしないようで、ますます親密になっていっているように見えた。


「なんか、会わないうちに変わったよね向日葵」

「まあ、こっちの方が素直で可愛げがあるんじゃねえの」

「なにそれ、今までは可愛げがなかったってこと?」


 軽い痴話喧嘩を交えながら談笑する向日葵様と皆さん。お互いに揶揄い合うその輪に何だか入り辛くて、私は少し離れたところでぼーっとその光景を眺める。決して遠慮する気はないものの、初めての感情と経験過ぎて、どう行動に移せばいいのか分からないのだ。向日葵様のように積極的になれる勇気もないし、これでは帰る日を待たずして、結果が出てしまうのでは………。


「黒馬、次見回りだよね?私も一緒に行きたい」

「珍しいな、そんなこと言うなんて」

「だめ?」

「……………」


 可愛く小首を傾げて微笑む向日葵様。特に黒馬様に対しては、このように押せ押せな様子で、見ていて私もドキドキしてしまうくらいだ。こんな可愛らしい女性に押されたら、男性にとっては堪らないのではないだろうか。


 しかし黒馬様は、向日葵様の誘いに一瞬答えを止め、ちらりとこちらを見てきた。何故か目が合って、私はまた慌てて視線を逸らす。なんで今私の方を見るのだろう。


「………いいけど」

「やった!じゃあ支度してくる!」


 私が視線を逸らしたから、なのだろうか。黒馬様は一瞬止めていた答えを、向日葵様に向けて言った。あっさりと承諾してしまったその約束は、まるで逢瀬だ。またズキ、と感じたことのない痛みを実感する。ここで「嫌だ、行かないで」「私と一緒に行って」と素直に言えたら、私も向日葵様みたいに、可愛らしい女性になれたのだろうか。


「菖蒲様」


 ふと呼ばれて、私は顔を上げた。目の前には、いつもの優し気な笑みを浮かべた青兎様が立っている。


「俺も見回り当番なんだけど、良かったら一緒に行かない?」

「え………」

「この周辺のこと案内できるし、いい気晴らしにもなるかなって」


 思わぬ救いの手を差し伸べてくれる青兎様が、今は天使のように見えた。じわり、と目に涙を浮かべる程感動しながら、私は迷いなくその手を取る。


「は、はい………!行きたいです………!」

「よかった。じゃあ菖蒲様も支度しておいで」


 優しくそう言われて、私はぱたぱたと向日葵様の背中を追うように、部屋へと戻っていた。残されたのは、男4人。白鹿様と紫狐様は今日は見回り当番ではないようで、また稽古に戻る準備を始めている。


「菖蒲様と、ギクシャクしてるんでしょ」

「…………」


 青兎様が黒馬様にそう声をかけると、黒馬様の動きが一瞬止まった。しかし、動揺を隠すように軍帽を深くかぶり直して、素知らぬ表情を浮かべる。


「………向こうが俺を避けてんだよ」

「早く仲直りしなよ。お互い意地張ってないでさ。こういう時は男が折れるもんだよ」

「別に意地なんて………」

「向日葵と一緒にいるの、菖蒲様への当てつけもあるでしょ」

「…………!」


 ぎく、と今度こそ動きを止めた黒馬様を、青兎様は見逃さなかった。小さく微笑みながら、黒馬様の肩をポンと叩く。


「意地悪な男は嫌われるよ」

「………うっせ」

「じゃ、俺は菖蒲様を迎えに行くから」


 そう言って楽しそうにその場を去っていく青兎様の背中を、黒馬様は恨めしそうに睨む。


「………そういうお前こそ、俺への当てつけだろ」


 小さくそうぼやいた呟きは、誰に届くことなくその場に消えた。
















 磐浜駐屯地の周辺は、横浜とは違って田舎ではあるものの、田舎には田舎の良さを感じられた。のどかで、自然が豊かで、空気と景色が綺麗で。人の活気は横浜と比べて劣るものの、どこか私の町に似た雰囲気を感じて、私はすぐにそこが好きになった。名目は青兎様の見回りという立派な軍の仕事だが、傍から見たら私たちはのんびり散歩をする男女であった。


「はー、ずっとあそこにいたら息が詰まるよ。やっと仮面を取れる」

「別に仮面かぶらなくたって、青兎様はそのままでいいのに」


 青兎様も青兎様で息抜きになっているようで、私しかいないこの場では少しだけ素顔を見せてくれた。彼は処世術の1つとして、優しい紳士な仮面を被っている。そのことで少し揉めたりもしたが、今はこうして私の前や特定の時だけは、ちゃんと自分の本音を伝えたり、素顔を見せることができるようになっていた。


「まあ、今となってはどっちも本当の俺なんだけどね」

「そう、なんですか?」

「うん。そう思えるようになったのは、菖蒲のおかげ」

「………!」


 さらりと呼び捨てにされて、たったそれだけで心臓が撥ねる。普段は物腰柔らかで紳士的な青兎様だからこそ、なのだろうか。1人でドキドキと緊張していると、今度は青兎様の手が私の手を取る。自然な流れで恋人がするように手を繋ぐ彼に、私は心を乱されっぱなしだ。


「連れて行きたいところがあるんだ」

「連れて行きたいところ?」

「うん。こっち」


 そうして、手を引かれるがまま、青兎様についていく。どんどん人気のない茂みの方へ入っていき、道は歩きづらい獣道へと変化する。この様子から見ても、あまり人が訪れない場所のようだ。しばらく草木をかき分けながら道と呼べない道を歩いていくと、目に入ってきたのは、まるでおとぎ話のような幻想的な景色だった。


「あ…………」


 林の中で、少しだけ開けたその場所は、綺麗な泉が日の光を浴びてキラキラと水面を揺らめかせていた。周りには小さな野花が咲き乱れ、静かでのどかな時間が流れている。私が目と心を奪われるのは、必然であった。


「ここ、俺たちしか知らない場所なんだ」

「俺たち………?」

「そ。俺と、黒馬と、白鹿と紫狐、あと、向日葵」

「え………。そんな秘密の場所、教えてもらってよかったのですか………?」

「うん。だって菖蒲も、もう俺たちの大事な人でしょ」


 昔、軍に入ったばかりの頃、厳しい訓練でくじけそうになった時、夜こっそり抜け出して見つけたのが、ここだったのだそうだ。あの頃はみんな必死で、お互い励まし合いながら、何とかしがみついていたと、青兎様が話してくれた。どうしようもないくらい辛い時、こっそりここにきて、静かな泉を眺める。すると、心が安らいで勇気が湧いてくる。そういう、みんなにとっての活力となっていた秘密の場所だ。


 私は静かに、泉のほとりの岩に腰かけて、水面を眺めた。今の私にこそ、必要な場所のような気がした。みんなとのこと。向日葵様のこと。黒馬様のこと。ここに来てから、心はぐちゃぐちゃで、迷って、悩んで、苦しくなってばかり。そんな私の心を、泉は優しく包み込んでくれていた。


「菖蒲、何かあった?」

「え………?」

「俺がここに菖蒲を連れてきたのは、何かに悩んでいるように見えたからなんだ」


 やっぱり、分かりやすかったかな。図星を付かれて、私は何も答えられないまま足元に視線を落とした。紫狐様にも励ましてもらって、少しはすっきりしたつもりだったが、実際に向日葵様が皆さんと仲良くしているところを見ていると、心が痛む。本当に私の気持ちを優先してもいいのか、私が身を引くべきなのではないかと。そんな考えが微かに頭を過って、迷いが生まれるのだ。


「向日葵のこと?」

「………!」

「やっぱり」

「な、なんで………」

「向日葵の様子もなんか変だし。多分みんなうっすら気付いてるとは思うよ」


 あと、菖蒲って思ってる以上に分かりやすいし。と付け足されて、ぐさりと心に刺さった。私、そんなに分かりやすいんだ………と軽く凹んでいると、「そこが菖蒲のいいところなんだよ」と笑われて、うまく誤魔化されたような気がしないでもない。


「向日葵に寂しい思いをさせただろうなっていうのは、俺たちも感じてるよ」

「…………」

「急に身近な人間が全員いなくなったんだから。ずっと1人で頑張ってたんだろうなって」

「そう、ですよね………」

「向日葵は俺たちにとっても大切な仲間だから。ちゃんと向日葵の気持ちは受け止めたいし、寄り添ってあげたい」


 改めて青兎様からそう聞くと、やはり彼らを邪魔しているのは私の方なんだという気持ちが大きくなっていく。友達だから、とか、遠慮しないとか、私………向日葵様に何を偉そうなことを言っていたのだろう。


「あの、私、やっぱり………」

「けど、それは菖蒲も同じ」

「え………」

「菖蒲も、本当はすごく寂しがりやで、放っておいたら1人で何でも背負い込んで、1人で頑張っちゃうような人でしょ」


 はっとして顔を上げると、私を見つめて、膝を付く青兎様の姿がある。まるで童話の王子様のようなその姿が、妙にこの幻想的な泉と調和していて、目を奪われた。綺麗、なんて、思いながら。


「少なくとも俺は、そんな菖蒲の傍にいたい、支えたい。儀式とかそんなのじゃなくて、男として」

「青兎様………」

「傍に、いさせて」


 そして私は気付けば、目を閉じた青兎様と唇を重ねていた。流れるような所作は、本当に絵本を切り抜いたようで、まるで夢のようだった。そっと、触れるだけの口付け。


「こんなこと、向日葵にはしないよ」

「あ……あおと、さま………」

「向日葵は家族として大切だけど、菖蒲は違う。俺にとって、一緒にいたい、俺を捧げたいって思える存在だから。………だから、勝手に俺たちのこと、諦めないで」

「……………」

「俺たちのこと、譲ろうとしないで」


 俺は菖蒲のこと譲らなかったよ、と言った青兎様の頭には、きっと過去に黄鳥曹長たちが行軍に来た時に、私を連れ出したことを思い出しているのだろう。そうだ、私はあの時青兎様に、「自分の気持ちに素直になれ」「嘘をつくな」と偉そうに説教したんだっけ。


「………ありがとう、青兎様」

「どういたしまして」


 帰ろうか、と差し伸べられた手を、私は迷いなく取った。私も、皆さんと一緒にいたいって思っていいんだ。そう改めて再確認できて、また少し、心が晴れたような気がした。


「この泉さ、昔向日葵が、勝手に迷信を作ったんだ」

「迷信?」

「この泉の前で誓いを立てたものは、その誓いが成就するって」

「へえ………、素敵ですね………」

「向日葵ってああ見えて結構乙女で夢想家だからね」


 じゃあ、さっきあの泉の前で一緒にいたいって確かめ合った私たちの言葉も………。そう思いながら振り返る。少しずつ遠ざかっていく泉は、やがて草木に隠れ、見えなくなった。


(口付けを交わした男女は永遠に一緒にいられる………っていう迷信は、言わない方がいいかな)


 名残惜しそうに振り返る私を、青兎様がそんな風に優し気に見下ろしていることなど、気付かないまま。

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