それを嫉妬と呼ぶ
バッと黒馬が扉の方を振り向く。廊下の方から何か物音が聞こえた気がして、扉に手をかけてガラリと引き戸を開ける。しかし、廊下には人の気配など無く、静寂が広がっているだけ。気のせい、だったのだろうか。
「………黒馬?」
そんな黒馬の後を、ひょこひょこと片足を引き摺りながら追ってきた向日葵。誰かいたの?と問いかけられ、首を左右に振った。
「………いや、何でもねぇ」
「………そう?」
「ああ。それより、足の手当てすんぞ」
そうして再び閉められた医務室の扉。確かにそこにいた筈の、1つの人影は、ほんの数秒前に、そこから逃げるように姿を消していたのだ。
はあ、はあ、と荒い呼吸を繰り返しながら、私は闇雲に廊下を走っていた。初めて来たこの建物の中を、こんな風に闇雲に走れば、自分が今どこにいるのか分からなくなるなんて至極当然のことで、私は行く宛もなく走り続けながら、とにかく必死に、彼らのことを忘れようとしていた。
『口付けして』
そう懇願した向日葵様と、その願いを呆然と聞く黒馬様。2人の姿が、どう足掻いても脳裏に蘇る。結局あの後、その続きを見るのが怖くて、あそこから逃げ出してしまって、今に至る。
黒馬様は向日葵様の事をよく理解しているようだったし、2人はずっとずっと昔から、長い時間を共に過ごしてきた関係だ。それに………、向日葵様は美人で、優しくて素敵な女性。黒馬様が彼女を受け入れたって、何も不思議じゃない。
だからこそ私はこんなにざわつき、あの後の光景を目に入れたくなくて、こうして走っているのだ。
とはいえ、私の終着点はどこなのだろう。どれだけ走り続ければ、この言いようのない気持ちが落ち着くのだろう。どうしたらいいのか分からなくて、私の気持ちなのに、私が混乱している。
そうして、永遠に逃げ続けて、終いにはここから居なくなりそうな勢いの私を、突然誰かがガシッと腕を掴んで引き留めた。突然のことに走っていた私の体はガクンと凄い勢いで引き戻され、呆然とそちらを振り返る。
「菖蒲、何してんだこんな所で!」
「し、紫狐様………」
私を引き止めたのは、紫狐様だった。ポカンとする私と同じで、紫狐様も驚いたように目を見開いていて、それは私が何故こんな所にいるのかというのが1つと、
「お前………泣いてんのか」
「え………?」
私自身も気付いていなかったが、ポロポロと涙を流していたからだった。紫狐様に言われて初めて、私は自分の頬に手を添える。濡れた感触を確かめて、急いで窓に反射する自分の顔を確認した。………泣いてる。私、泣いてたんだ。なんで………。
泣いている本人も理解ができていないという不可解な状況に、紫狐様もどう接していいのか分からない様子だったが、廊下の向こうから人の話し声が聞こえてくると、私は咄嗟に紫狐様の体にしがみ付いた。みっともなく泣いている姿なんて、誰かに見られたくない。
「………………」
私のそんな気持ちは、紫狐様にも伝わったのだろう。紫狐様は、再び私の手を掴むと、
「こっち」
そう言って、人気のない場所へと連れて行ってくれた。
「こっちは物置しかねぇから滅多に人来ねえんだよ」
「ありがとうございます………」
「落ち着くまでここにいればいい。俺も邪魔ならどっかに………」
「ま、待って!」
気を遣って、自分も立ち去ろうとする紫狐様の手を、今度は私が慌てて掴んだ。
「い、行かないで」
「…………っ!?」
「そばに、いてください………」
これが惚れた弱みか、と感じずにはいられない。紫狐の目には、涙を溜めながら上目遣いで、そばにいて、と懇願する想い人の姿が映し出されていて、クラクラと目元を押さえながら、分かった、と返事をするのが精一杯だった。
ぐずぐずと、鼻を鳴らす私の隣で、ただ静かにそこにいる紫狐様。お互い床に座りながら、ぼーっと窓の外の太陽を見上げて、落ち着くのを待った。一頻り私が泣き終え、段々冷静になってきたのを見計らって、紫狐様が口を開く。
「………あんなとこで何してたんだよ」
「……………」
「医務室に行ったんじゃなかったのか」
「それは…………」
「言いたくないなら、言わなくていい」
ぶっきらぼうだが、優しい言葉が私を包み込む。言いたくないわけではない。でも、これを言ったら、紫狐様は私のことを嫌いになるのではないか。幻滅するのではないか、という不安があった。
しばらくの間、言うべきか言わないべきか悩んで、その間も彼は急かす事なく、ただ隣で待ってくれていた。そして漸く私の心の中で決心がつき、私のこの気持ちや思い、感じた事を、紫狐様に打ち明けることにしたのだった。
「医務室に着いて、私………、聞いてしまったんです。向日葵様と、黒馬様の会話を」
「………………」
「皆さんが儀式の為に、ここを出て行ったこと、本当はすごく寂しかったと、向日葵様は仰っていて………、私、胸が締め付けられる思いでした。私も、横浜駐屯地にいる間、同じような気持ちでしたから………」
何年も一緒にいた仲間。いや、それ以上の感情を抱き、強い絆で結ばれていた人たちが、突然、みんないなくなってしまった。想像するだけで、心が張り裂けそうだ。私はまだ、たったの数日間。彼らと離れ離れだった期間は、その程度。でも、向日葵様は数ヶ月にも渡る。その時間は恐ろしく長くて………、こうして帰って来なければ、向日葵様は未だ黒馬様たちと再会していなかった。
「アイツがそんな事を…………」
「私がいなければ。儀式なんてなければ、向日葵様と皆さんは、引き裂かれることもなかった。でも………、もしそうだったら、今度は私が、皆さんと出会えていなかった。今もまだ、独りぼっちで、与えられた運命の呪いに苦しめられながら、漠然と生きていた。そう考えると………、私も………、それは、嫌、って………思ってしまって………」
「菖蒲………」
「向日葵様のこと、好きなのに。友達に、なりたいのに………。私、皆さんのこと、譲りたく、ない………」
最低、だ。元々出会っていたのは、向日葵様の方が先なのに。私はここの滞在期間を終えたら、また皆さんのことを引き連れて、向日葵様を独りにするというのか。でも、じゃあ私が1人で帰ります、という勇気も………無い。
「譲りたくないって、思ってくれてんだ」
「え………?」
「俺らのこと」
顔を上げると、思った以上に至近距離に紫狐様の顔があって、うっすらと頬を赤く染めた彼の真剣な瞳が、真っ直ぐ私を射抜いていた。時が止まったように周りの喧騒が聞こえなくなって、世界に私と紫狐様しかいないような、そんな錯覚をしてしまいそうになる。
「き、嫌いに、なりましたか………」
「全然」
「幻滅、しましたよね」
「全く」
「う、嘘です………」
「嘘じゃない」
「だ、だってわたし、最低なこと言ってます………」
「どこが」
「向日葵様の気持ち知ってて、皆さんのこと渡したくないって言ってるんですよ………」
「アイツの気持ち知って、それで何でお前が譲らなきゃなんねぇんだよ」
「え………?」
理解が出来ずに瞬く私に、紫狐様は少し呆れたように眉を顰める。
「お前と向日葵、同じだろ」
「同じ………?」
「俺らと離れるのは寂しいって気持ち、同じなのに、何でお前だけが我慢しなきゃなんねぇんだよ」
「で、でも、今までずっと我慢してきたのは向日葵様の方で………」
「それは別に、お前が我慢させてた訳じゃねぇ。俺たちが、お前との儀式に合意して、ここを出たんだ」
「でも………、同じ気持ちなら、苦しさも平等じゃなきゃ………」
「あのなぁ」
なかなか納得しない私に、紫狐様は盛大な溜息をついた。
「じゃあお前は、友達と同じ男を好きになったら、友達と仲良く半分こすんのかよ」
「そ、そんなの、しないに決まって………!」
「だろ。これは、もうどっちかが納得して吹っ切れるか、決まるまでぶつかるしかねぇんだよ。で、お前は納得できないから、悩んでんだろ」
「あ…………」
「菖蒲、偶には他人のこと第一じゃなくて、自分の気持ちを優先しろよ」
私が抱いたこの想いと葛藤は、決して変なのではないと。向日葵様に対して、最低なんかじゃないと、紫狐様はハッキリ答えてくれた。それだけでも、私の心は救われていく。みんなの事、譲りたくないって、思っててもいいんだ。
「それに、こればっかりは俺らの意思もあるからな」
「そ、そう、ですよね。皆さんが向日葵様と共にいることを選ぶのなら、それは私も納得してお別れできると思います」
「多分、それは向日葵も同じだと思うぜ」
私と向日葵様だけの意思で決められることではない。最終的に彼らが何を選ぶのかは、彼ら自身の意思で決めるのだ。
「だから、向日葵も、どっちの結果になっても納得できるように、黒馬に伝えられること伝えたんだろ」
「………そっか、それで、口付け………」
「え?」
私のその単語に、紫狐様は一気に固まった。私もハッとして、口を手で覆うももう遅い。滑らせたその単語はしっかりと紫狐様の耳に入っていて、ガバリと私の肩を掴まれる。本当は言わずに秘密にしておこうと思っていたのに、紫狐様の食い気味なその様子に押されて、どんどんボロが出る。
「く、くちづけ…………?」
「あ、いや、その…………」
「アイツら、そういう関係だったのか」
「あ、ち、違います!正確には、口付けしているところは見ていなくて、ただ、口付けして欲しい、と向日葵様が………」
「アイツが!?」
「ああぁ…………」
こういうの、絶対に言っちゃ駄目なヤツだよなぁ、と顔色をどんどん青くしていく私に、紫狐様は「誰にも言わないから大丈夫だ」と口をつぐんでくれた。人の色恋沙汰を勝手に触れ回るなんて、それこそ最低だ。自己嫌悪に陥る私と、その話を聞いてどこか合点がいった様子の紫狐様。
「お前………だから泣いてたのか」
「え………」
「黒馬が、向日葵と口付けすんのが嫌で、泣いてたのか」
確認するような、問い詰めるようなその瞳に、私は逃げ場を失っていた。




