ごめんなさいと、亀裂
わあわあと一向に騒ぎが収まらない中、不安そうに私を見上げるのは、向日葵様の丸い瞳。
「だ、大丈夫なの?菖蒲ちゃん………」
「向日葵様、離れていてください」
そっと彼女を離れた場所に行かせ、私は改めて男三人組に向き直る。向こうは向こうで、誰が行くか話し合っているようで、結果、1番体が大きく武術も長けているらしい男が選出された。てっきり3人同時に相手しなければならないと思っていたが、そこは彼らにも信念があるようだ。
そうして、円を描くように集う人だかりの舞台の中で、私は成り行きで、この男と稽古を交わすこととなった。お互い卑怯な手は使わない。正々堂々の一本勝負。私は静かに息を吐き、呼吸を整えながら、戦う準備を整えた。最近ずっと横浜駐屯地で幽閉されていて、体が鈍っている。いい肩慣らしになりそうだ。
と、同時に。私は珍しく、ムキになっていた。この男には負けたくない。向日葵様の夢の為にも。
「お嬢ちゃんから来いよ」
「こんな状況で女性優先たあ、橙山も紳士だなあ!」
「男の鏡だぜ!!」
くいくい、と手で先手をどうぞと促してくる、橙山と呼ばれる男。残った2人は、そんな彼の姿にヒューヒューと野次を飛ばしていて、それがまた不快である。しかし、こういった場面で感情に吞まれてはいけない。それは、私に護身術を叩き込んでくれた、和尚の教えだ。募る苛立ちを息と共に吐きだして、私は男に向かっていった。
男は完全に、私の力を侮っている。それは、何よりも彼の判断を鈍らせ、私を有利を導いてくれるはずだ。一気に距離を詰める私に、男はにやにやと相変わらず舐め腐った笑みを浮かべたまま、胸元へと手を伸ばしてきた。胸元を掴むつもりだろうか。その狙いを瞬時に見定めて、私は男の腕を掴み、ぐるりと捻ってみせた。
「なっ…………」
「………まさか、これで終わりではありませんよね」
ギリギリと軋む男の腕。更に力を込めれば、男から苦悶の声が漏れた。今まで盛り上がりを見せていた周囲の観客たちは、逆にシンと静まり返って、「仮にも軍人が女にやられんのかよ………」とでもいうような空気が漂い始める。女の弱い力でも、可能な限りで、最大限相手に痛みを与える手段は、和尚様から叩き込まれた。時には人体の仕組みすら勉強した。体格も力も、女の倍あると言っても過言ではない男と対峙する時、必ずその知識は役に立つから、と。
「小賢しい真似を………!」
少しは本気になってくれたのだろうか。ニマニマとした不快な笑みは男から消え、代わりに少し焦ったような表情を浮かべていた。私の手から腕を振り払い、拳を振り上げる。そう、その動き。相手が焦って殴りかかろうとした時こそ、私にとっては好機。
流れるように男の腕を抱え込み、肩に担ぐ。足を掛け、速度と拍子が合えば、女でも自分より大きな相手や男を投げることができる。次の瞬間、唖然とする面々の前には、宙に投げ出される大男の姿。どしん、と床に背中を打ち付け、苦しそうに倒れる男を前に、私は深く息を吐いた。綺麗な一本背負いが決まった。
しばらくの静寂の後、まるで時が動き出したかのように、周囲から野次と歓声が上がった。そこで私はようやく冷静に返り、周りに沢山の観客がいたことを思い知る。恥ずかしさでみるみる全身を赤く染める私の傍には、駆け寄って来た向日葵様と紫狐様。
「菖蒲ちゃん!!すごい、すごいわ!!貴女ほんっとに強いのね!」
「い、いや、今のはたまたま相手が思惑通りに動いてくれたので………」
「やっぱお前の一本背負い、手本みてぇに綺麗だな!!見てて興奮したぜ!!」
興奮気味の2人を他所に、床に倒れたままの橙山にもう2人の男が駆け寄る。女に負けて面子が無い橙山は、悔しそうに体を起こし、「なに女に負けてんだ!」「こっちは賭けてたんだぞ!」と飛び交ってくる野次に、「うるせえ!!」と一喝した。自分が負けた現実に苛立ちが止まらない。恨めしそうに、自分を負かした女を睨む。
「クソアマ………。いい気になりやがって………!」
「橙山………!」
仲間の制止を振り払い、ゆらゆらと立ち上がる男。こちらには気付いていない様子の私と、向日葵様、紫狐様に忍び寄る。こうなればもう何だっていい。自分に恥をかかせた女に一泡吹かせることができれば、この鬱憤も多少は晴れる。
「舐めてんじゃねえぞ、クソアマァ!!!」
完全に、油断していた。私がその声に気付いた時には、既に男はすぐ背後にいて、拳を振り上げていた。しかもその拳は、私と、隣にいる向日葵様をも巻き込もうとしていた。慌てて私が向日葵様を庇おうとする前に、紫狐様が咄嗟に私の体を抱き寄せる。ただ、これでは私は無事でも向日葵様が間に合わない。一気に恐怖に歪む向日葵様が、腰を抜かしたのかぐらりと傾いて、そして………。
「………そこまでだ」
倒れ込む向日葵様を抱きしめ、男の拳も手で受け止めたのは、黒馬様だった。良かった、向日葵様が殴られずに済んだ、と安心する横で、男は怒り任せに拳に力を込める。
「邪魔すんじゃねえ、黒馬………。これは俺とコイツの問題だ」
「だったら、もう終わったことだろ。お前は菖蒲に負けたんだ」
ぎりぎりと、男が拳に力を込めると、黒馬様の受け止める力も増して、緊迫した空気が流れた。しかし、最後には男も諦めたのか、その手を降ろし、居たたまれない様子で戻っていった。危ないところだったが、何とか収束したこの場に、野次馬たちも散り散りに稽古に戻っていく。残されたのは、私を庇う紫狐様と、向日葵様を抱く黒馬様。そして、騒ぎを見ていた白鹿様と青兎様も慌てて駆け寄って来た。
「菖蒲、大丈夫か」
「は、はい、私は何とも………。それより、向日葵様が………」
「私も平気。黒馬が助けてくれたから………」
紫狐様に返事をした私は、向日葵様の身を案じた。私よりも向日葵様の方が怖い思いをした筈。対して向日葵様は、己を抱える黒馬様に視線を向けた。相変わらず向日葵様を抱き留めたままの黒馬様は、何かを考え込むように俯いていて、微動だにしない。「黒馬?」と白鹿様が呼びかけて、ようやく彼の目が、私を見つめる。………睨むように。
「菖蒲。危ないことはするなって、散々言ってるよな」
「ご、ごめんなさい………」
「結果的に、向日葵まで巻き込んだんだぞ」
返す言葉もない。感情に任せて喧嘩を買って、向日葵様を巻き込んでしまった。俯く私の代わりに、今度は紫狐様が口を挟む。
「向こうが先に突っかかって来たんだ。むしろ菖蒲は、向日葵を守る為に………」
「だとしてもだ。他に手段はあった筈だ。俺やお前に相談すればよかった話だろ。馬鹿みたいに真正面から、しかも軍人相手に啖呵切って………」
「あ?テメェ………、なんだその言い方。お前に相談したところで、どうせ規律がとか立場がとか言って、結局いつも何もしねぇじゃねえか。堅物がよ」
「は………?」
私のことが発端で、まさかの黒馬様と紫狐様の間にまで険悪な雰囲気が漂い始める。その間に挟まれて、おろおろと狼狽えるのは私と向日葵様だ。いつも仲がいい彼らが、ここまで一触即発な雰囲気になるのを見るのは初めてで、私も言葉が出なかった。固まる私たちを他所に、今度は見かねた白鹿様と青兎様が間に入る。
「………ちょっと。なんで黒馬と紫狐が喧嘩してんの」
「菖蒲様たちが怖がってるよ」
黒馬様を止める白鹿様と、紫狐様を宥める青兎様、2人の言葉に、黒馬様と紫狐様は無言になった。私はそっと紫狐様の腕から離れると、向日葵様の方へ駆け寄ろうとする。しかし、まるでそれを拒むように、黒馬様が向日葵様を抱えたまま立ち上がった。姫抱きにされて、一気に頬を染める向日葵様が慌てふためく。
「く、黒馬!?私なら大丈ぶ………」
「さっき倒れそうになった時、足挫いただろ」
「え………」
その場の誰もが気付いていなかった、向日葵様の怪我を、黒馬様だけが見抜いていた。なんで知ってるの、と言いたげな向日葵様の視線を受けて、黒馬様は呆れたように溜息をつく。
「分かるに決まってんだろ。何年一緒にいたと思ってんだよ」
「黒馬………」
そんな2人の光景を目の当たりにして、何故か私は、石のように固まって動けなくなっていた。何なんだ、この気持ち。嫌な………、もやもやとした、この感覚。食堂で、みんなと朝食を食べた時にも薄々感じていた、あの感覚だ。
「向日葵様、ごめんなさい。私………」
「菖蒲ちゃん、本当に気にしないで。足捻ったのなんか大したことないし。それに、私の為に戦ってくれたんだもん。むしろ、嬉しかった」
「向日葵様………」
そして、そんな私の前を横切る黒馬様。目すら合わない、冷たい背中。
「向日葵は俺が医務室に運ぶ。お前らは稽古に戻れ」
それだけ言って、黒馬様と向日葵様は、廊下の奥へと消えていった。感情が追い付かず、茫然と立ち尽くす私に、紫狐様が声をかけてくれた。
「………俺は、あんな風に立ち向かったお前のこと、かっこいいって思ったけどな」
「紫狐様………。ごめんなさい、私………」
「菖蒲ちゃんも、黒馬に怒られて十分反省しただろうし、もうこれ以上は気にしないでいいよ」
黒馬様に怒られたことに落ち込んでいると思われているのか、紫狐様と白鹿様は、慰める言葉をたくさんかけてくれた。怒られるのは当然だし、私も軽率だったと、そこはちゃんと反省している。気にしていない訳ではない。でも、それよりも、私は………。
脳裏にこびり付いて離れない、向日葵様を抱きしめる黒馬様と、そんな黒馬様を愛おしそうに見つめる向日葵様。それに対して、私が抱いた、初めての感情。
「黒馬、いつになく神経質だねー」
「まあ、菖蒲様が連れ去られて、危険な目に遭ったばかりだから………。余計かもしれないね」
「………にしても、あの言い方はねえよ」
私の隣で3人が会話している内容など、最早私の耳にはこれっぽっちも入ってこなかった。




