儚く散る
「返せダァ?何だ、この女の知り合いか」
「ぁ………っ」
男は、白鹿様の言葉に眉を寄せると、隣で倒れ込んだままの私の髪を掴んで持ち上げた。痛みに歪む私の呻き声に、白鹿様の雰囲気が一層怒気を含む。
「その女さえ返してもらえれば、これ以上手出しはしない」
「ほぉ?あっちの女はどうでもいいのか」
「………俺には関係ない」
冷たく吐き捨てられた白鹿様の言葉は、鋭い刀のように、芹様の胸に突き刺さった。何も言い返せず俯く芹様の姿が目に入る。彼女を放って、私だけ逃げるなんて、そんなの私が許さない。
「私はまだ戦えます………!芹様のこと、守らないと………」
「この後に及んでも分からないの?自分が無謀なことしてるって」
鋭い白鹿様の言葉は、今度は私目掛けて降り注ぐ。相変わらず冷たい目で私を見下ろす彼は、本当に芹様を見捨てて、私だけ連れて帰るつもりだ。白鹿様なら、この男たちを返り討ちにする実力があるというのに。
「無謀なのは分かってます………、でも芹様を放って逃げるなんて…………」
「あの女は、自分の問題なのに菖蒲を巻き込んだ上、自分では戦わず、菖蒲に戦わせてるんだよ」
それは、彼女の精神状態が不安定だから、仕方の無いことだ。私は何度もこういった経験があるから慣れているだけで、普通の人ならば怖くて仕方がないだろう。
「痴話喧嘩なら、終わった後にゆっくりやって貰えますかねぇ」
見かねて男が口を挟んできた。掴んだままの私の髪を更に引っ張って、私に顔を近づけてくる。そして、べろり、とその長い舌が私の頬に這った。ゾワゾワと全身に鳥肌が走り、言いようのない嫌悪感に蝕まれる。
「よく見りゃ別嬪さんだぁ。今から俺らで回すからよぉ、それが終わったら好きに持って帰れよ」
男が下品な言葉を並べた瞬間。白鹿様は目にも止まらぬ速さで間合いを詰めると、男の喉を竹刀で力いっぱい突いて、そのまま突き倒してしまった。一瞬にして、呆気なく倒れ込んだ男の手から、私の髪が解放されて床に倒れる。もぞもぞと踠きながら体を起こす私の目には、白鹿様が男の喉に突き立てた竹刀をグリグリと押し続けている姿が飛び込んできた。
息が吸えないと暴れる男は、どんどん顔が真っ青になっていった。それでも力を抜かず、涼しい顔で見下ろす白鹿様に、慌てて飛び付く。
「だ、駄目、白鹿様!死んじゃう!」
「こんな汚い奴、生きてる価値ないでしょ」
「だめ、お願いやめて!!」
私が必死に懇願して白鹿様の手を握ると、ようやく白鹿様は、竹刀に込めた力を緩めてくれた。男はとっくに気絶しているようで、反応はない。もう少しで本当に死んでしまうところだったと、嫌な汗が流れた。
そして、その一部始終を見ていた残りの男たちは、白鹿様の圧倒的な強さと雰囲気に、完全に戦意を消失していた。1人が慌てて逃げ出すようにその場を去っていくと、釣られるようにして、1人、また1人と逃げていく。結局最後には、私と白鹿様と芹様、そして白鹿様にやられて完全に伸びている男数人だけが、取り残される形となっていた。
思っていたような形ではなかったが、一先ずは、道場破りを追い払い、事態は収束した。芹様も、芹様の道場も、奪われずに済んだ。とにかくその事が、私にとっては何よりも安心し、体の力が一気に抜けたのだった。
しかし。これで平和になりましたと終わる訳にはいかなかった。白鹿様は私の隣から離れ、静かに芹様の方へ歩いて行く。そしてあろうことか、手にしていた竹刀を、芹様の眼前に突き付けたのだ。
「白鹿様………!?」
「………どうして菖蒲を巻き込んだ?」
「は、白鹿…………」
ゴクリ、と芹様の喉が鳴る。今の白鹿様は、本気だ。嘘でも冗談でもない。芹様が相手でも、容赦無くその竹刀を振り下ろす。そんな雰囲気を纏っている。
「死ぬなら1人で死ね」
「…………」
「関係ない人間を巻き込んで、自分はただぼーっと見ているだけ」
「ご、ごめんなさい…………」
「そもそも、こんな道場に命張る程の価値なんてないでしょ」
「…………………」
「命が惜しいなら、さっさと道場売って、汚いおっさんに股でも開いて金稼げば良かったのに」
そこまで言った白鹿様の背中に竹刀を突き付けたのは、私だった。なんて酷いことを。白鹿様と芹様の間には、私が知らない何かがあったのかもしれない。白鹿様にここまで言わせる事情があるのかもしれない。けれど……、黙って聞き流せる言葉ではなかった。ピタリと言葉を止めた白鹿様は、芹様に突き付けていた竹刀をゆっくり下ろし、こちらに振り返る。
「………どういうつもり?菖蒲」
「それ以上芹様を侮辱するなら、私が許しません。過去にここで何があったのか知りませんが………。それが芹様を傷付けていい理由にはなりません」
「………そう。それで?どうするの?俺とやるの?」
「……………私が、相手になります。白鹿様。もう一度、手合わせをお願いできますか」
「勝てないくせに」
ふん、と鼻で笑った白鹿様は、私に向き直った。相変わらず、竹刀を持った彼の右手は、ぷらん、と垂れ下がったまま。構えすらしない。舐められている。
対して私は、先程借金取りの男の攻撃を受けて、利き腕は上手く力が入らず、体力も消耗したままだ。ただでさえ力の差があるというのに、こんな体調で勝てるわけがない。
(それでも………)
許せなかった。芹様に対するあの言葉。とても白鹿様らしくない。彼は確かに意地悪なところもあるけれど、心の奥は優しい人だった筈だ。どうして。
「どうして………、白鹿様…………!」
私は、その切ない思いをぶつけるように、白鹿様に向かって走り出した。何度も、何度も、竹刀を振り下ろす。この数日間、芹様に教わった全てを出し切る。しかし、たったの1度も、私の刀が白鹿様に触れるどころか、彼を追い詰めることすら無かった。やがて、そんな攻防も飽きたのか。白鹿様の竹刀が、私の竹刀を弾き飛ばす。初めて手合わせした時と、同じように。からん、からん、と床に落ちて回る竹刀に、私は力無く腕を下ろした。やっぱり、たった数日間で差が縮まる訳ないか。
「……帰るよ」
黙ったまま項垂れる私に、白鹿様はそう言った。こちらに背を向け、道場を出て行く背中。私を一度も振り返る事なく、放っておけば、そのまま1人で帰ってしまいそうな位だ。
「ま、待って!!」
そんな白鹿様を呼び止めたのは、私ではない。芹様だった。去ろうとする背中に駆け寄り、その背中にしがみつきながら、芹様が問いかける。
「どうして………、どうして、居なくなっちゃったの………!?私、ずっと待ってたのに………」
芹様の脳裏に浮かぶ、あの頃の白鹿様の姿。道場に背を向け、一度も振り返る事なく去っていった背中。今の背中と、全く同じ。
「………呑気なもんだね。自分の父親が何をしていたのか、本当に知らないの?」
「え…………?」
振り返った白鹿様の顔を見た時、私は言葉を失った。白鹿様も、とても辛そうな、悲しそうな、そんな顔をしていたからだ。
「尊敬していた………。俺に剣術を教えたくれた師範のこと。お前のことだって、俺はあの時…………」
「白鹿………」
「けど、裏切ったのはお前たちだ」
今でも、白鹿様の奥底に色濃く残る、悲しい過去。あの日は、大きな交流試合が行われる日だった。一心流道場の看板である白鹿は、その日も例に漏れず、道場の絶大な信頼を背に、試合に臨むつもりだった。
その光景を見たのは、偶々だった。手合わせ前に、偶々通りかかったそこで、己の師範の背中を見つけた。こんな裏の方で、一体何をしているんだろうと白鹿が覗き込む。
そこには、大金の受け渡しをする、師範の姿があったのだ。
「師範は、自分の教え子の勝敗を、金で買っていた」
「う、嘘よ………。お父さんが、そんなことする訳ない…………」
「師範は、俺たちのことなんて信用してなかったんだ。ただの金の道具。金で買った勝ちを積み重ねて、俺は、アイツの操り人形になっただけだった」
一心流に、無敗の門下生がいるとなれば、道場の名は一気に知れ渡る。そうして有名になれば生徒は増え、勝ちを買うために使った金など、あっという間に倍になって返ってくる。芹の父親にとって剣術は、金儲けの1つでしかなかったのだ。そうして芹の父親は、自分の愛弟子であった筈の白鹿の勝利を金で買っていたのだった。
「俺は、目を覚まして欲しかった。尊敬する師範に戻って欲しかった。だから…………」
その後、師範に手合わせを挑んだ白鹿は、見事、白鹿が勝った。いつの間にか白鹿は、厳しい稽古と自分自身を追い詰めて鍛錬した事で、その年齢にして、己の師範すら超えていたのだ。これできっと、分かってくれる。金なんかで買わなくたって、俺は誰にも負けない。師範の、自慢の一番弟子に………。
『最低!!!!』
白鹿に突き付けられたのは、負けた己の父親を庇い、最低だと罵る芹の非難の眼差し。芹だけではない。師範の裏の顔を知らず、盲信的に彼を尊敬するたくさんの門下生たちを、敵に回した。白鹿は、そこで悟ったのだ。ここに自分の居場所はない。自分が大好きだったここは、変わってしまったのだと。
「そんな…………。私、そんなの、知らなかった…………」
「知らなくても、あの時お前が俺に向けた目を、俺は忘れない」
「白鹿…………」
「もう2度と、お前の顔も見たくない」
菖蒲、行くよ、と白鹿様に名前を呼ばれて、私はよろよろと立ち上がった。白鹿様の口から告げられた真実は、芹様に深く大きな傷を作っただろう。けど………部外者である私に、何かできることも、かける言葉も見つからない。ただそっと、芹様の丸まった小さな背中に手を添えた後、私はそのまま白鹿様の後を追った。このままでは、本当に白鹿様を見失いそうだ。
そうして小走りで彼を追いかける私を、芹様が追い抜いた。目を見開いている内に、芹様は、白鹿様の背中に抱き着く。
「お願い、待って白鹿!」
「…………………」
「謝って済む事じゃないのは、分かってる………!でも私、このまままた白鹿と会えなくなるのは嫌だ!やっと、やっと会えたのに」
泣きながら必死にしがみつく芹様。しかし、やはり白鹿様は、1度も振り返ることなど無かった。
「私、白鹿のこと、白鹿と過ごした時間、忘れた事ないよ………。ずっと、白鹿の強さに憧れてた。親が勝手に決めた許嫁だったけど、私は本気で、白鹿のこと好きだった。いつか結婚しようって、子供の約束だけど………、あそこの庭の木の下で、私たち…………!」
「悪いけど」
そこまで捲し立てた芹様の手を、白鹿様は冷たく振り払った。
「俺は1つも覚えてない」
そして今度こそ、白鹿様は足を止める事なく、道場を後にしたのだった。取り残される芹様の後ろで茫然とする私を、白鹿様が再度「菖蒲」と呼ぶ。早く帰るぞと、遠ざかっていく背中が告げている。きっと彼がここにやって来ることは、もう永遠にないのだろう。




