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第98話「限界」

 意識が、遠くなっていた。


 でも——消えなかった。


 ギリギリのところで、繋がっていた。


 学園長が俺に近づいてきた。


 穏やかな顔だ。


 でも——目が、違う。


 81話で見た顔じゃない。


 笑顔の下の何かが、完全に剥き出しになっていた。


「さあ、17君」学園長が手を伸ばした。「大人しくしていてください。痛くはしません」


 俺は——動いた。


 体が動かないはずだった。


 でも、動いた。


 式系・(おぼろ)


 存在の霧化。


 学園長の手が——すり抜けた。


 学園長が少し止まった。


「……動けるのですか」


「動ける」


 嘘だ。


 ギリギリだ。


 でも——まだだ。


---


 俺は立ち上がった。


 体が震えていた。


 膝が笑っていた。


 でも——立った。


 学園長が俺を見た。


 穏やかな笑顔が、少し崩れた。


「……驚きました。あれだけのダメージを受けて、まだ立てるのですか」


「お前と戦う前に——倒れるわけにはいかない」


「倒れるわけにはいかない?」学園長が首を傾けた。「でも17君、あなたは今——限界です。それは自分が一番わかっているはずです」


「わかってる」


「なら——」


「わかってる上で、立っている」


 学園長がしばらく俺を見た。


 それから——笑った。


 今度は穏やかじゃない笑い方だった。


「面白い子ですね。本当に」


---


 学園長が能力を展開した。


 (かがみ)を展開した。


 感知した。


 ——読めない。


 学園長の能力が、まだ読めない。


 以前、感知したときと同じだ。


 読もうとすると、何もない。


 でも——今日は違う。


 何もない、じゃなかった。


 何かが、ある。


 でも形がない。


 輪郭がない。


 蚜が——奈落に落ちていく感覚じゃない。


 霧の中にいる感覚だ。


 どこを見ても、霧だ。


 能力の輪郭が、霧に溶けている。


「読もうとしていますね」学園長が静かに言った。「無駄ですよ。私の能力は——見えないようにできています」


「隠しているのか」


「違います」学園長が笑った。「見えない、のです。そういう能力です」


---


 学園長が動いた。


 速くなかった。


 ゆっくりと、歩くような速度だった。


 でも——俺は動けなかった。


 体が重い。


 灰島との戦闘で、限界近くまで削られていた。


 学園長の手が来た。


 俺は式系・(はらい)を展開した。


 全干渉の解除。


 学園長の能力が——一瞬、霧散した。


 でも。


 解除されたのは表層だけだった。


 学園長の能力の核心は——消えていなかった。


「祓ですか」学園長が静かに言った。「全干渉の解除。灰島の時間干渉には効きましたね。でも——私の能力には、表層しか届きません」


「なぜだ」


「私の能力は、干渉ではないからです」学園長が俺を見た。「干渉を解除しても、意味がない」


 干渉ではない。


 俺は少し考えた。


 学園長の能力は——何だ。


---


 学園長が手を伸ばした。


 俺は式系・(くびき)を展開した。


 糸を走らせた。


 学園長に絡みつかせた。


 ——すり抜けた。


 学園長が霧になった。


 糸が空を切った。


「……霧か」俺は言った。


「違います」学園長が別の場所に実体化した。「霧ではない。存在の定義が——曖昧なのです」


「存在の定義が曖昧」


「私は——どこにでもいて、どこにもいない」学園長が静かに言った。「存在しているが、存在していない。そういう能力です」


 俺は少し止まった。


 存在しているが、存在していない。


 式系が通じない理由がわかった。


 式系は存在への刻み込みだ。


 でも学園長の存在は——定義が曖昧だ。


 刻み込む対象が、定まらない。


---


 俺はFormula:2を展開しようとした。


 因果逆転。


 学園長の能力の因果を——


 学園長が動いた。


 俺の展開より速かった。


 学園長の手が、俺の胸に触れた。


 何かが、流れ込んできた気がした。


 痛みじゃない。


 でも——重い。


 体の中から、何かが引っ張られる感覚だ。


「……っ」


「能力に触れようとしましたね」学園長が静かに言った。「でも今は、まだ早い。あなたの能力は——もう少し、私が整えてから取り込みます」


 整える。


 俺の能力を、取り込みやすいように整える。


 それが——今学園長がしていることか。


 俺は学園長の手を振り払おうとした。


 動けなかった。


 体が、さらに重くなっていた。


---


 Formula:0を展開した。


 絶対消去。


 学園長に向けた。


 ——消えなかった。


 学園長がそこにいた。


「絶対消去」学園長が静かに言った。「灰島にも通じなかったでしょう。私にも通じません。存在の定義が曖昧な相手を、どの点から消去しますか?」


「……どこにでもいるから、消去できない」


「そうです」学園長が頷いた。「よく理解していますね」


 Formula:0が通じない。


 式系が通じない。


 祓の表層しか届かない。


 Formula:2は展開する前に潰される。


 体が限界に近い。


 ——手がない。


 今の状態では、手がない。


---


 俺は彙武(きかいぶ)を詠唱した。


「遠」


 スナイパーだ。


 距離を取って撃った。


 学園長が霧散した。


 弾が空を切った。


 学園長が別の場所に現れた。


「武器ですか」学園長が静かに言った。「でも私の存在に、物理は届きません」


「わかってる」


「わかっていて使うのですか」


「他に選択肢がない」


 俺は「散」に切り替えた。


 ショットガンだ。


 広範囲に撃った。


 学園長が——一瞬、ぐらついた。


 霧散しきれなかった部分に、当たった。


「……」


 学園長が少し眉を寄せた。


「物理が届かないんじゃないのか」


「届きにくい、と言うべきでした」学園長が静かに言った。「完全に物理を無効化しているわけではない。でも——」


 学園長が能力を展開した。


 霧が、さらに濃くなった。


 ショットガンの弾が、全部、霧に溶けた。


「この程度では、意味がありません」


---

 もうここまでか。

そう思った時、俺の脳に一つよぎったことがあった。俺は——最後の手段を使うことにした。


 Formula:1。


 今まで使いたくなかった。


 使うべき場面じゃなかった。


 でも——今だ。


 展開した。


 学園長が少し目を細めた。


「Formula系ですか。でも——」


 学園長が言い終わる前に、展開が完了した。


 何かが——走った。


 形がない。


 音もない。


 でも確かに、何かが学園長に向かった。


 学園長が——少し、動きを止めた。


 頬に、一筋の切り傷が入った。


 血が、わずかに滲んだ。


 学園長が自分の頬に手を触れた。


 指先に血がついた。


 しばらく、それを見ていた。


「……傷をつけましたか」学園長が静かに言った。「Formula:1。効果は——なるほど、そういうものですか」


 俺は学園長を見た。


 学園長の表情が、一瞬だけ——変わった。


 穏やかさじゃない。


 別の何かが、ほんの一瞬だけ顔に出た。


 驚きか。


 あるいは——警戒か。


「大したことはありませんでしたが」学園長が笑った。「少し、驚きました。その能力が使えるとは思っていなかった」


「……使えた」


「ええ。でも——それだけです」学園長が俺を見た。「傷一つ。それ以上の効果はなかった」


 俺はわかっていた。


 大した効果はなかった。


 でも——学園長が一瞬だけ動きを止めた。


 傷がついた。


 学園長に傷をつけたのは——これが初めてだ。


 それだけで、十分だ。


 今は。


 俺は——膝をついた。


 体が、動かなくなった。


 限界だった。


 灰島との戦闘で削られた体に、学園長との攻防が重なった。


 もう——立てなかった。


 学園長が俺を見下ろした。


「お疲れ様でした、17君」学園長が穏やかに言った。「本当によく戦いました。灰島との戦闘だけでも、普通の能力者なら死んでいた。それだけの子を作ってくれた灰島には——感謝しています」


 俺は地面を見た。


 手をついた。


 立ち上がろうとした。


 ——動かなかった。


「もう終わりにしましょう」学園長が手を伸ばした。「安心してください。あなたの能力は、世界を変えるために使います。無駄にはしません」


 世界を変える。


 過去から全てを改変する。


 灰島が息子のために求めたものを——学園長は世界支配のために使おうとしている。


 俺は——


 動けなかった。


 学園長の手が、近づいてきた。


 その瞬間。


---


 蚜が反応した。


 複数の気配。


 南から。


 北から。


 東から。


 全方向から、同時に。

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