第97話「魔剣」
灰島の周囲の時間が、歪み始めた。
蚜が感知した。
単純な遅延じゃない。
加速でもない。
複数の時間軸が、同時に展開されていた。
俺は少し止まった。
複数の時間軸。
——過去回帰だ。
本来の能力だ。
「今まで使っていなかったのか」俺は言った。
「お前の実力を測るために、時間干渉だけで戦っていた」灰島が静かに言った。「でも——彙武には驚いた。このまま続ければ、俺が負ける可能性があった」
「認めるのか」
「事実だ」灰島が俺を見た。「だから——本来の能力を使う」
---
灰島が動いた。
俺は彙武「乱」で迎えた。
両手の刃を走らせた。
——灰島がいなかった。
空を切った。
後ろから気配がした。
振り返った。
灰島がいた。
でも——おかしい。
一瞬前、灰島は正面にいた。
瞬間移動じゃない。
過去に戻って、別の位置から動き直した。
「……過去に戻って、動き直したのか」
「そうだ」灰島が静かに言った。「過去回帰能力の本来の使い方だ。攻撃を受ける直前の過去に戻り、別の行動を取る。俺にとって、負けという結果は存在しない。何度でも戻れる」
俺は少し止まった。
何度でも戻れる。
負けという結果が存在しない。
——これは。
厄介どころじゃない。
---
俺は彙武「射」に切り替えた。
引き金を引いた。
弾が走った。
灰島に当たった。
——当たった。
でも。
灰島が、わずかに目を閉じた。
一瞬だった。
弾が当たった瞬間の過去に戻った。
灰島が別の位置に立っていた。
弾は空を切っていた。
「……なるほど」俺は言った。「当たった後でも、当たる前の過去に戻れる」
「そうだ」灰島が頷いた。「結果が確定した後でも、その直前に戻れる。だから俺には——傷が残らない」
さっきつけた傷が、全部消えていた。
脇腹も、肩も、腕も。
全部、なかったことになっていた。
---
俺は彙武を手放した。
一度、全部止めた。
考えた。
過去に戻って結果を書き換える。
傷を受けた直前に戻る。
負ける瞬間の直前に戻る。
これを相手にして、どう勝つか。
式系は通じない。
Formula:0は通じない。
彙武で傷をつけても、戻られる。
祓で時間干渉を解除できる。でも過去回帰そのものには効かない。
——Formula:2は。
因果逆転。
過去に戻るという因果を、逆転させれば。
過去に戻ろうとした力が、戻ろうとした本人に向かう。
でも——それだけで足りるか。
灰島の過去回帰は深い。
因果を一度逆転させても、さらに前の過去から戻ってくる可能性がある。
足りない。
もう一枚、必要だ。
---
灰島が踏み込んだ。
俺は祓を展開して捌いた。
でも——灰島が過去に戻った。
攻撃の直前に戻って、別の角度から来た。
当たった。
腹に入った。
重い。
俺は後退した。
灰島が再び踏み込んだ。
過去に戻りながら、攻撃を続けた。
当たる。
捌いても、戻られる。
戻られた過去では、捌けていない。
俺の体に、ダメージが積み重なった。
さっきまでと逆だ。
今度は俺が一方的に当たり続けている。
---
俺は距離を取った。
体が重い。
腹、肩、背中。
傷が増えていた。
血が出ているものもある。
灰島は傷一つなかった。
過去に戻るたびに、全部消えている。
「……どうする」灰島が静かに言った。「お前の手札は見た。式系も、Formula:0も、彙武も——俺の過去回帰の前では意味がない」
「まだある」
「何が」
俺は灰島を見た。
「まだある」
灰島が少し目を細めた。
「使ってみろ」
---
俺はFormula:2を展開しようとした。
因果逆転。
灰島が過去に戻ろうとした瞬間に、その因果を逆転させる。
でも——展開の直前に、灰島が動いた。
時間を加速させた。
俺のFormula:2の展開より、灰島の動きの方が速かった。
拳が来た。
当たった。
俺は吹き飛んだ。
地面に叩きつけられた。
起き上がろうとした。
重い。
体が、限界に近づいていた。
「Formula系か」灰島が俺を見下ろした。「因果に干渉しようとしていたな。でも——展開する前に潰せば意味がない」
俺は地面に手をついた。
立ち上がった。
「……まだだ」
「まだ立つか」
「ああ」
灰島が少し目を伏せた。
「お前は——本当に」
「褒めるな」
「褒めていない」灰島が俺を見た。「心配している」
俺は灰島を見た。
心配。
作った存在を、心配している。
それが——腹立たしいような、少し、わかるような。
---
灰島が再び構えた。
周囲の時間が、さらに大きく歪み始めた。
蚜が感知した。
今まで以上の規模だ。
過去回帰の範囲が広がっている。
半径が、広がっている。
俺だけじゃない。
周囲全体の時間が、灰島の支配下に入ろうとしていた。
「これが——奥の手だ」灰島が静かに言った。「局所的な時間干渉じゃない。半径数十メートルの時間を、俺が支配する。この範囲の中では——全ての結果を書き換えられる」
全ての結果を書き換える。
この範囲の中では、俺が何をしても——灰島に都合のいい過去に書き換えられる。
俺は少し、目を閉じた。
考えた。
Formula:2だけでは足りない。
もう一枚、必要だ。
天神との契約。
あの夜、二つ目に求めたもの。
……
それを使う時が来た。
俺は目を開けた。
灰島を見た。
「来い」俺は言った。
「覚悟はいいか」
「ああ」
灰島が踏み込んだ。
時間が、歪んだ。
俺は——動いた。
全力で。
でも。
足りなかった。
灰島の奥の手の前に——まだ、足りなかった。
---
体に、重い衝撃が走った。
俺は地面に倒れた。
起き上がれなかった。
体が動かなかった。
空が見えた。
朝の空だ。
青かった。
灰島が俺を見下ろした。
「……終わりにしよう」灰島が静かに言った。「お前は十分戦った」
「……まだだ」
「無理だ」
「まだだ」
俺は地面を掴んだ。
立ち上がろうとした。
体が——動かなかった。
灰島が手を伸ばした。
融合しようとしている。
俺の能力を取り込もうとしている。
——来るな。
俺は最後の力で式系を展開しようとした。
でも。
その瞬間。
灰島の背後に、別の気配が生まれた。
灰島が振り返った。
俺も感知した。
蚜が反応した。
——学園長だ。
学園長が、来た。
灰島が目を細めた。
「……来たか」灰島が静かに言った。「思ったより早かった」
学園長の声がした。
穏やかな声だった。
でも——今日は、違う。
穏やかさの下に、別の何かが剥き出しになっていた。
「灰島さん。お疲れ様でした」学園長が言った。「後は、私が引き受けます」
灰島が——少し、目を閉じた。
俺は地面から学園長を見た。
来た。
榎本が言っていた通りだ。
灰島を使って17を追い詰め、融合の寸前で横から奪う。
その通りになった。
俺は——動けなかった。
体が限界だった。
空が、少し暗くなった気がした。
---
最後に——灰島が俺を見た。
目が、さっきまでと違った。
研究者の目じゃない。
別の何かだ。
灰島が口を開いた。
何かを言おうとした。
でも——学園長が動いた。
灰島に向かって、能力を展開した。
灰島が——倒れた。
音もなく。
静かに。
なぜだ。どうやって灰島の能力を展開している状態で殺した。
俺は灰島を見た。
灰島が地面に倒れたまま、俺を見ていた。
目が——まだ動いていた。
でも、体が動かない。
学園長が灰島を見下ろした。
「用済みです」学園長が静かに言った。「ありがとうございました、灰島さん。三十年、よく働いてくれました」
灰島が——少し、目を細めた。
俺を見た。
口が動いた。
声が出なかった。
でも——口の形で、わかった。
二文字だ。
俺の、名前だ。
でも——聞こえなかった。
意識が、遠くなっていた。
空が暗い。
学園長が俺に近づいてきた。
穏やかな顔だ。
でも笑顔が——怖い。
「さあ」学園長が俺を見下ろした。「17君。後は私と来てもらいましょう」
俺は——動けなかった。
意識が、さらに遠くなった。
暗くなった。
その瞬間、俺の頭の中に——一つだけ、言葉が浮かんだ。
天神との契約。
二つ目に求めたもの。
——魔剣・變【黄泉戸喫】




