第95話「綻び」
体が重かった。
腹、肩、脇腹、背中。
積み重なった痛みが、全身に広がっている。
でも——立っていた。
灰島が少し距離を置いて、俺を見ていた。
追ってこない。
待っている。
俺が次に何をするか、見ている。
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俺は息を整えながら、頭を動かした。
整理する。
灰島の能力。
時間への干渉全般。
対象の時間を遅くする。加速することもできる。
過去を参照して、攻撃の直前を見ることができる。だから回避される。
式系・笪による封印が通じない。時間に干渉する能力は、存在への刻み込みより根が深い。
Formula:0による絶対消去が通じない。時間軸全体に存在しているから、一点を消しても別の点にいる。
式系・祓による全干渉の解除は——一瞬だけ効く。時間の遅延を解除できる。でも持続しない。
打てる手が、少ない。
でも——ゼロじゃない。
俺は灰島を見た。
もう一度、蚜を展開した。
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今度は違う見方をした。
灰島の能力そのものを見るのをやめた。
灰島の動き方を見た。
過去を参照して回避する。
直前の過去を見ている。
——どれだけ前の過去を見ているのか。
一秒前か。
コンマ数秒か。
灰島が動いた。
俺は式系・絔を走らせた。
また空を切った。
でも——今度は、空を切るタイミングを見ていた。
灰島が回避したタイミングを、計った。
コンマ、七秒。
俺の攻撃が来るコンマ七秒前の過去を、灰島は参照していた。
「……コンマ七秒か」
灰島が少し止まった。
「気づいたか」
「計った」
灰島が少し目を細めた。「賢い。でも気づいたところで——」
「まだだ」俺は言った。「気づいただけじゃ何も変わらない。わかってる」
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続けた。
蚜を展開したまま、灰島の能力を観察し続けた。
時間の遅延。
俺の時間だけが遅い。
灰島が干渉している範囲はどこまでか。
全身か。
それとも——部分的か。
式系・祓を一瞬だけ展開した。
全干渉の解除。
時間の遅延が解けた。
一瞬だけ。
その一瞬に、俺は動いた。
右に踏み込んだ。
左に切り返した。
感じた。
左に切り返した瞬間、遅延が戻るのが——わずかに遅れた。
「……部分的だ」
灰島が少し止まった。
「何が」
「時間の遅延。全身じゃない。俺の体の、動きの起点に干渉している。重心だ。重心の時間を遅くしている」
灰島がしばらく俺を見た。
「……正確だ」灰島が静かに言った。「重心の時間を遅くすれば、体全体の動きが遅くなる。全身に干渉するより、コストが低い」
「だから長時間維持できる」
「そうだ」
俺は灰島を見た。
重心への干渉。
ならば——重心を、複数持てばいい。
いや、違う。
重心を、常に移動させ続ければ——干渉する対象が定まらない。
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俺は動き始めた。
止まらなかった。
常に重心を移動させながら動いた。
左右に揺れながら、前後に動きながら。
重心が一点に定まらないように。
灰島の干渉が——わずかにずれた。
時間の遅延が、完全じゃなくなった。
灰島が少し目を細めた。
「……面白い」
「まだだ」
俺は続けた。
重心を移動させながら、式系・蚜の感知を研ぎ澄ませた。
灰島の過去参照。
コンマ七秒前の過去を見ている。
コンマ七秒先の動作を読まれている。
ならば——コンマ七秒先に、複数の選択肢を持てばいい。
どちらに踏み込むか、コンマ七秒前の時点で決めない。
体を動かしながら、最後の瞬間に決める。
——できるか。
やってみた。
踏み込んだ。
右か左か、最後まで決めなかった。
体の感覚だけで、直前に右を選んだ。
灰島が左に回避した。
空を切らなかった。
灰島の腕をかすった。
灰島が——止まった。
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静寂。
灰島が自分の腕を見た。
わずかな接触だ。でも——当たった。
「……当たったな」灰島が静かに言った。
「ああ」
「なぜだ」
「コンマ七秒前の時点で、俺がどちらに行くか決めていなかった」俺は言った。「決めていない動作は、参照しても読めない」
灰島がしばらく俺を見た。
「……なるほど」灰島が静かに言った。「過去を参照しても、その時点で決定していない未来は見えない。だから読み切れなかった」
「そうだ」
「三十年、誰にも気づかれなかったことを——一度の戦闘で気づいた」灰島が少し目を細めた。「お前は、本当に」
「褒めるな」
「事実だ」
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俺は蚜を閉じた。
整理が終わった。
灰島の能力を、完全に理解した。
時間への干渉全般。
重心への干渉による時間の遅延。
コンマ七秒前の過去参照による回避。
封印・消去が通じない理由。
全部、わかった。
わかった上で——どう戦うか。
祓で遅延を解除する。重心を移動させ続けて干渉をずらす。最後の瞬間まで動作を決めないことで過去参照を無効化する。
Formula系を——どう使うか。
それが、次だ。
俺は灰島を見た。
「続けるか」灰島が言った。
「ああ」俺は答えた。「今度は——こっちから行く」
灰島が少し目を細めた。
表情が——少し変わった気がした。
楽しんでいる、のかもしれない。
それが腹立たしいような、少しだけ理解できるような。
俺は踏み込んだ。




