第94話「格の違い」
場所は街外れの空き地だった。
広い。建物がない。周囲に人がいない。
灰島が選んだ場所だ。
俺たちは向かい合った。
朝の光が差し込んでいる。風がない。静かだ。
白瀬たちには連絡していない。
拠点を出たのは早朝だ。誰も起きていなかった。
これは——俺と灰島の話だ。
最初は、俺一人でやる。
「準備はいいか」灰島が言った。
「ああ」
灰島が目を閉じた。
一秒だけ。
開いた。
空気が変わった。
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灰島が動いた。
速くなかった。
ゆっくりと、歩くような速度で踏み込んできた。
でも——俺は動けなかった。
足が、重かった。
蚜を展開した。
感知した。
周囲の空気が——歪んでいた。
時間が、わずかに遅れている。
俺の体の周囲だけ、時間の流れが変わっていた。
過去回帰能力の応用だ。
周囲の時間を操作している。
俺の動きを、遅くしている。
灰島の拳が来た。
速くない。でも俺が遅い。
当たった。
腹に入った。
重かった。
俺は後退した。
「……っ」
灰島が止まった。
「痛いか」
「……ああ」
「そうか」灰島が静かに言った。「俺の能力は過去回帰だけじゃない。時間への干渉全般ができる。対象の時間を遅くすることも、加速することも」
俺は体勢を立て直した。
式系・蚜を全力展開した。
灰島の能力の輪郭を掴もうとした。
——深い。
読もうとすると、奈落に落ちていく感覚だ。
底がない。
三十年かけて磨いた能力だ。
簡単に読めるはずがなかった。
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式系・絔を展開した。
糸を走らせた。
灰島に向かった。
灰島が——少し動いた。
糸が、空を切った。
灰島がいた場所に、糸が届いた。
でも灰島はそこにいなかった。
一歩だけ、横にいた。
タイミングがずれていた。
俺の攻撃の「直前の瞬間」に、灰島が移動していた。
「……過去を見ているのか」俺は言った。
「そうだ」灰島が静かに答えた。「お前の攻撃が来る直前の過去を参照して、回避している。俺には——お前の動きが先に見える」
先に見える。
これは——厄介だ。
式系・笪を展開した。
灰島の能力を封印しようとした。
灰島が少し目を細めた。
笪が——霧散した。
「封印は通じない」灰島が言った。「時間に干渉する能力は、存在への刻み込みより根が深い。式系では届かない」
俺は少し止まった。
式系が通じない。
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灰島が再び動いた。
ゆっくりとした動作だ。
でも俺の時間が遅い。
灰島の拳が来た。
俺は捌こうとした。
遅かった。
肩に入った。
右肩だ。先日刺客に刺された場所だ。
痛みが走った。
俺は後退した。
灰島が追ってきた。
拳が来た。
腹に入った。
膝に来た。
俺はかろうじて捌き続けた。
でも——当たる。
時間が遅い状態で、過去を見ながら動く相手には——捌き切れない。
俺は距離を取った。
「Formula:0」
そう虚空に向かって囁いた。
絶対消去。
今まで通じなかったものはない。
灰島に向けて、展開した。
——消えなかった。
灰島がそこにいた。
何も起きなかった。
俺は少し止まった。
灰島が静かに言った。
「それが絶対消去か」
「……通じなかった」
「そうだ」灰島が静かに言った。「絶対消去は、存在するものを消す。でも俺は——時間に存在している。この瞬間の俺を消去しようとしても、俺は別の瞬間にもいる。過去にも、わずかな未来にも。どの瞬間を消去しようとしても、別の瞬間から俺は存在し続ける」
俺は灰島を見た。
「時間軸全体に存在している、ということか」
「正確ではないが——そう理解していい」灰島が静かに言った。「だから絶対消去は通じない。一点を消しても、俺は別の点にいる」
俺は灰島を見た。
消去が通じない。
封印が通じない。
時間を遅くされている。
攻撃の直前の過去を見られている。
今の状態では——手が届かない。
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灰島が踏み込んだ。
俺は式系・祓を展開した。
全干渉の解除だ。
時間の遅延が、一瞬だけ解けた。
俺は動いた。
灰島の攻撃を捌いた。
カウンターを入れた。
灰島の顎に入った。
灰島が一歩後退した。
俺は距離を取った。
祓は——効く。
でも持続しない。
一瞬解除して、また遅くされる。
いたちごっこだ。
「……祓か」灰島が頬を押さえた。「全干渉の解除。それは効く。でも」
「持続しない。わかってる」
「そうだ」灰島が静かに言った。「お前は——賢い。状況をちゃんと把握している」
「褒めるな」
「事実だ」灰島が俺を見た。「でも賢さだけでは、今の俺には届かない」
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攻防が続いた。
祓を使って一瞬だけ動ける。
でもすぐに時間を遅くされる。
式系が通じない。
Formula:0が通じない。
打てる手が、少ない。
俺は何度も当たった。
腹。肩。脇腹。背中。
全部、致命的じゃない。でも積み重なる。
体が重くなってきた。
灰島は傷一つなかった。
俺のカウンターが何発か入っていた。でも灰島は気にしていないように見えた。
——格が違う。
三十年かけて磨いた能力の前に、今の俺の手札では足りない。
わかっていた。
でも——わかった上で、立っていた。
「まだ立つか」灰島が言った。
「ああ」
「なぜだ」
「まだ終わっていないからだ」
灰島がしばらく俺を見た。
それから——目が、少し変わった。
「……そうか」
灰島が再び踏み込んだ。
俺は——受けた。
倒れなかった。
まだ、立っていた。




