第93話「灰島迅」
朝だった。
珍しく早く目が覚めた。
まだ六時前だ。
蚜を展開した。
南の方向。
——いない。
昨夜まであった気配が、消えていた。
俺は少し止まった。
消えた、のではない。
移動した。
どこに。
蚜を広げた。範囲を広げた。
——わからない。
完全に消えている。
俺は蚜を閉じた。
着替えた。
外に出た。
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朝の街は静かだった。
人通りがほとんどない。
俺は歩いた。
特に目的地はなかった。
蚜を薄く展開したまま、歩いた。
北に向かった。
商店街を抜けた。
公園の前を通った。
——そのとき。
すれ違った。
男だった。
俺の横を、ごく普通に歩いていた。
背が高い。四十代。黒いジャケット。髪が少し乱れている。整った顔立ちだ。表情がない。
俺は三歩、通り過ぎた。
足が止まった。
振り返った。
男も止まっていた。
振り返っていた。
お互いを見た。
男が——少し、目を細めた。
「会いに来た」
低い声だった。
静かな声だった。
でも——その声を聞いた瞬間、式系の全部が反応した。
俺は男を見た。
蚜を全力展開した。
読めなかった。
何も読めなかった。
学園長のときと同じだ。でも違う。
学園長は鏡だった。こちらが返ってくる感じだ。
でも目の前の男は——深い。
読もうとすると、奈落の底に落ちていく感じがした。
無限に、深い。
俺は蚜を閉じた。
「……灰島か」
男が頷いた。
「灰島迅だ」
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公園の前だった。
人通りがない。
お互いに動かなかった。
俺は灰島を見た。
整った顔だ。疲れているように見えない。でも——目が、違う。
深い目だ。
何十年分もの何かが、その目の中にある。
「思ったより普通の場所で会った」俺は言った。
「そうか」灰島が静かに言った。「どんな場所を想像していた」
「もっと劇的な場所だと思っていた」
「俺はそういうのが好きじゃない」灰島が少し目を細めた。「研究者だからな」
俺は灰島を見た。
研究者。
俺を作った人間が、自分を研究者と言った。
「お前が作った人間の前で、研究者と名乗るか」
「事実だ」灰島が静かに言った。「俺はお前を研究した。作った。育てた。それは全部事実だ」
「謝らないのか」
「謝る気持ちはある」灰島が俺を真っ直ぐ見た。「でも謝って何かが変わるとは思っていない」
俺は灰島を見た。
予想していた人間と、少し違った。
もっと冷たい人間だと思っていた。
感情がない人間だと思っていた。
でも——目が、違う。
何かを、ずっと抱えている目だ。
「榎本から聞いた」俺は言った。「失った何かを取り戻そうとしている、と」
灰島が少し止まった。
「榎本が話したか」
「断片だけだ。全部は聞いていない」
灰島がしばらく俺を見た。
それから——少し、目が変わった。
「お前は——聞きたいか。俺が何を取り戻そうとしているか」
俺は少し考えた。
「聞く」
「戦う前に?」
「ああ」
灰島が少し目を細めた。
「……変わったやつだ」
「お前が作ったんだ」
灰島が——少し、笑った。
笑顔じゃない。口角が上がっただけだ。
でも笑った。
「そうだな」灰島が静かに言った。「俺が作った」
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公園のベンチに、二人で座った。
奇妙な光景だ。
俺と灰島が、朝の公園のベンチに並んで座っている。
灰島が前を向いたまま話し始めた。
「三十年前、俺に息子がいた」
俺は灰島を見た。
「能力者だった。計測不能の能力者だ。俺とは違う系統の能力を持っていた」灰島が静かに言った。「可能性に満ちた子どもだった。でも——十五歳のときに死んだ」
「なぜ」
「能力の暴走だ」灰島が前を向いたまま言った。「計測不能の能力は制御が難しい。俺が研究を進めていれば、防げたかもしれない。でも間に合わなかった」
俺は何も言わなかった。
「過去回帰能力で戻ろうとした。でも届かなかった。三十年前は——俺の能力の限界をはるかに超えていた」灰島が少し目を伏せた。「だから研究した。限界を超えるために。届かない過去に、届くために」
「息子を助けるために」
「そうだ」灰島が静かに言った。「それだけのために、三十年かけた」
公園に朝の風が吹いた。
俺は灰島を見た。
三十年。
息子を失って、三十年。
過去に届くために、研究所を作り、能力者を集め、瑞樹を閉じ込め、俺を作った。
「水瀬透を消したのも、そのためか」
灰島が少し止まった。
「水瀬は——研究の方向性に異を唱えた」灰島が静かに言った。「正しかった。水瀬は正しかった。でも俺には止まれなかった」
「後悔しているか」
「している」灰島が俺を見た。「水瀬のことも、瑞樹のことも、お前のことも。全部、後悔している」
俺は灰島を見た。
後悔している目だ。
嘘じゃない。
でも——後悔しながら、続けた。
「それでも続けたのか」
「続けた」灰島が静かに言った。「息子に届くためなら、何でもした。それが——俺の全てだった」
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しばらく沈黙が続いた。
朝の公園に、鳥の声がした。
俺は灰島を見た。
「お前の目的はわかった」
「そうか」
「でも——お前のやり方は、間違っていた」
灰島が俺を見た。
「わかっている」
「わかっていて続けた」
「そうだ」灰島が静かに言った。「俺は間違っていた。でも——止まれなかった」
俺は灰島を見た。
止まれなかった。
その言葉の重さを、俺は少し理解した。
わかってしまった。
でも——だからといって、許せるわけじゃない。
「戦う」俺は言った。
「わかっていた」灰島が立ち上がった。「来ると思っていた。お前がそういうやつだということも」
「お前が作ったんだ」
「そうだな」灰島がもう一度、少しだけ笑った。「お前は——俺が思っていたより、ずっとちゃんと育った」
俺は答えなかった。
「場所を変えよう」灰島が言った。「ここは狭い」
「ああ」
二人で公園を出た。
朝の街を、並んで歩いた。
奇妙な光景だ。
でも——これが、灰島迅との始まりだった。




