第92話「前夜」
朝、蚜を展開した。
南の方向。
——昨日より近い。
でも止まっている。
まだ来ない。
でも——今日か、明日だ。
俺はそれだけ確かめて、蚜を閉じた。
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朝食の席が静かだった。
白瀬がいつもより喋らなかった。桐島が珈琲を飲みながら書類を見ていた。朝霧が窓の外を見ていた。
全員が感じ取っていた。
言葉にしなくても、空気でわかる。
近い、ということが。
瑞樹が台所から出てきた。全員の顔を見た。
何も言わなかった。
でも——俺を見た。
目が「後で話したい」と言っていた。
俺は頷いた。
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午前中、榎本から連絡が来た。
『学園長が動いた。昨日の夜から気配が変わった。灰島が動くのを待っている。』
俺は画面を見た。
『灰島が動いたら学園長も動くということか』
『そう思う。灰島を使って17を追い詰め、融合の寸前で横から奪う——そういう絵を描いている可能性がある。』
俺は少し止まった。
融合の寸前で横から奪う。
つまり——灰島も、学園長にとっては駒だ。
灰島が俺との融合を果たした瞬間、学園長が動く。
灰島は——学園長にとって、最後の手段でもあり、捨て駒でもある。
『灰島はそれを知っているか』
少し間があった。
『……知らないと思う。知っていたら、動き方が変わるはずだ。』
『わかった。気をつけろ』
『お前もだ。17——灰島との決戦、気をつけろよ。本当に。』
榎本らしくない言葉だった。
でも——今回は素直に受け取った。
『ああ』
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昼過ぎ、瑞樹が台所に来た。
俺も台所にいた。
瑞樹が向かいに座った。
湯呑みが二つ置かれた。いつもの流れだ。
でも今日は——瑞樹の方から先に口を開いた。
「記録、もらえる?」
俺は瑞樹を見た。
「施設Aの記録」瑞樹が静かに言った。「榎本さんからもらったやつ。ずっと引っ張ってくれてたんでしょ」
「……準備ができたか」
「できた、とは言えない」瑞樹が湯呑みを両手で包んだ。「でも——灰島が来る前に、受け取っておきたい」
俺は瑞樹を見た。
「なぜ」
「灰島が来てからじゃ、読む気持ちになれないかもしれない。でも今なら——ちゃんと向き合える気がする」
俺は少し考えた。
立ち上がった。
部屋から箱を持ってきた。
テーブルに置いた。
瑞樹が箱を見た。
しばらく動かなかった。
手を伸ばした。
触れた。
「……重いね」
「十三年分だ」
「そうだね」瑞樹が静かに言った。「十三年」
俺は席に戻った。
瑞樹が箱を膝の上に置いた。開けなかった。ただ、持っていた。
「17」
「何だ」
「灰島のこと——怒ってる?」
俺は少し考えた。
「怒りはある」
「憎んでる?」
「……まだわからない」
瑞樹が頷いた。
「私も」瑞樹が窓の外を見た。「怒りはある。でも憎しみとは違う気がして。ずっとそれが——自分でも変だと思ってた」
「変じゃない」
「そう?」
「複雑な人間だと——誰かに言われた」俺は答えた。「灰島は。憎むだけでは見えないものがある、と」
瑞樹がしばらく黙っていた。
「……そうかもしれない」瑞樹が静かに言った。「あの人は——研究しか見えていなかった。でも研究の向こうに何かを求めていた。それだけは、子どもの頃でもわかった」
「何を求めていたか、わかるか」
「わからない」瑞樹が首を振った。「でも——取り戻したいものがあった。それだけは確かだと思う」
榎本も同じことを言っていた。
失った何かを取り戻そうとしている、と。
「水瀬さんのことが——記録に入ってるんだよね」瑞樹が箱を見た。
「入っている、と榎本は言っていた」
「そっか」瑞樹が静かに言った。「怖いけど——読む。ちゃんと読む」
「急がなくていい」
「うん」瑞樹が俺を見た。「でも——読んだら、また話せる?」
「ああ」
「いつでも」
「ああ」
瑞樹が小さく頷いた。
箱を抱えたまま、立ち上がった。
「ありがとう。ずっと持っていてくれて」
「当然だ」
瑞樹が少し笑った。
部屋に戻っていった。
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夕方、白瀬が俺の部屋に来た。
ドアを開けたら立っていた。
「入っていい?」
「ああ」
白瀬が入って、壁に背を預けた。椅子には座らなかった。
「明日か」
「たぶん」
「そうか」白瀬が天井を見た。「俺、灰島に会うの初めてだ」
「ああ」
「どんなやつだと思う?」
俺は少し考えた。
「会ってから判断する」
「そうだな」白瀬が少し笑った。「お前らしい」
しばらく沈黙が続いた。
「白瀬」
「何?」
「瑞樹を頼む。灰島が来たとき、絶対に離れるな」
「わかってる」白瀬が真剣な顔になった。「絶対離れない。約束する」
「ああ」
「17」白瀬が俺を見た。「お前も——戻ってこい」
俺は白瀬を見た。
白瀬が真っ直ぐ俺を見ていた。
いつもの軽さがない。
本気の目だ。
「……ああ」
白瀬が頷いた。
それだけだった。
でも十分だった。
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夜、朝霧が廊下で俺を呼んだ。
「少しいいか」
「ああ」
朝霧が窓の外を見た。
「俺は明日、17の周囲の警戒を担う。でも——」朝霧が静かに言った。「灰島の能力が過去回帰なら、俺の知覚系では追えない可能性がある」
「わかってる」
「役に立てないかもしれない」
「役に立てる」
朝霧が俺を見た。
「灰島が動いたとき、周囲に何が起きるかわからない。お前が灰島に集中している間、周囲を見ていてくれる人間が必要だ」
「……そうか」
「朝霧がいる。それだけで違う」
朝霧がしばらく俺を見た。
それから——静かに頷いた。
「心配するより隣にいればいい」
「ああ」
朝霧が廊下を歩いていった。
俺はその背中を見ていた。
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深夜、一人で窓の外を見た。
蚜を展開した。
——来る。
今夜かもしれない。
気配が、今日一日でまた近づいていた。
止まっていない。
ゆっくりと、でも確実に、近づいてきている。
俺は蚜を閉じた。
灰島。
失った何かを取り戻そうとしている人間。
水瀬透が消えた後も研究を続けた人間。
俺を作った人間。
そして——学園長に利用されている人間。
会う。
ここで迎える。
俺は目を閉じた。
眠れるかどうかわからない。
でも——眠ろうとした。
それだけだ。




