第91話「前夜の前」
桐野が来たのは午前九時だった。
黒い車。いつもと同じだ。
助手席から降りてきた桐野が、拠点の前で俺を見た。
男を見た。
一瞬だけ、目が止まった。
「……これは」
「管理局と灰島、両方に繋がっていた人間だ」
桐野が男をもう一度見た。
「知っている顔だ」桐野が静かに言った。「管理局の中で、数年前から行方不明になっていた人間だ」
「灰島側に引き抜かれていた」
「そうか」桐野が目を閉じた。「……連れていく。身柄は管理局で預かる」
「頼む」
桐野の部下二人が男を車に乗せた。
桐野が俺を見た。
「話せるか。少しだけ」
「ああ」
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拠点のテーブルを囲んだ。
桐野、白瀬、朝霧、桐島、俺。
瑞樹と奥津は別室に下がっていた。
桐野が口を開いた。
「西堂副局長の件、調査が進んでいる」
「どこまで進んだ」
「施設Bの不正運営については証拠が揃った。副局長は現在、管理局内部で完全に動けない状態だ」桐野が静かに言った。「ただ——」
「ただ?」
「副局長が灰島と繋がっていた期間、どれだけの情報が漏れていたか——まだ全部は把握できていない」
「俺たちの拠点の場所も、漏れていると思っていい」
「そうだな」桐野が頷いた。「今朝の件がその証拠だ。灰島はすでに把握している」
テーブルに沈黙が落ちた。
白瀬が口を開いた。「拠点を移すか」
「移しても意味がない」俺は言った。「灰島の過去回帰能力があれば、どこにいても辿り着ける可能性がある」
「じゃあどうする」
「迎える」
全員が俺を見た。
「逃げても時間稼ぎにしかならない。灰島が来るなら——ここで迎える」
桐野がしばらく俺を見た。
「……わかった」桐野が頷いた。「管理局として、できる限りのサポートをする」
「桐野さん自身は動かなくていい」
「なぜ」
「危険だ。学園長が——」俺は少し止まった。「学園長の動きがまだ読めない。管理局の内部に学園長の手が及んでいる可能性がある」
桐野が目を細めた。
「学園長を疑っているのか」
「疑っている。確証はない。でも——桐野さんが動きすぎると、学園長に察知される可能性がある」
桐野がしばらく考えた。
「……わかった。表向きは通常業務を続ける」桐野が俺を見た。「でも何かあれば、すぐに連絡してくれ」
「ああ」
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桐野が帰った後、テーブルに全員が残った。
白瀬が珈琲を配った。
「整理しよう」白瀬が言った。「今俺たちが把握していること」
「灰島が南区にいる」朝霧が言った。「拠点の場所を知っている。今朝の男を通じて17の実力を測った」
「次は灰島本人が来る可能性が高い」桐島が続けた。「時期は——」
「近い」俺は言った。「二、三日だと思う」
「根拠は」
「蚜の感知だ。気配が近づいている。でも急いでいない。測ったデータを処理してから来る」
白瀬が珈琲を飲んだ。「灰島との決戦、俺たちはどうすればいい」
「見ていろ」
「見てるだけか」
「最初は俺がやる。状況によって変わる」俺は白瀬を見た。「でも——瑞樹を守っていてくれ」
白瀬が少し止まった。
「瑞樹さんを」
「灰島は瑞樹を取り戻そうとする可能性がある。まだ研究対象として価値があると思っているなら、必ず動く」
白瀬が頷いた。今度は真剣な顔だ。
「わかった。任せろ」
朝霧が静かに言った。「俺は17の周囲の警戒を担う」
「頼む」
桐島が言った。「俺は情報収集と後方支援だ。榎本との連絡も維持する」
「ああ」
全員が頷いた。
誰も怖がっていなかった。
怖がっていないわけじゃない。でも——それより先に、やることが決まっている顔だ。
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夕方、咲から連絡が来た。
『師匠!!今日の修行どうしますか!!』
俺は少し考えた。
『今日は休め』
『え!!なんでですか!!』
『少しバタついている。明日以降にする』
『バタついてる……何かあったんですか!!』
『大したことじゃない』
『絶対大したことあります!!』
俺は少し考えた。
『咲』
『はい!!』
『今は学園にいろ。普通にしていろ』
少し間があった。
『……わかりました』少し間があった。『でも、絶対呼んでくださいね!!何かあったら!!』
『ああ』
『約束ですよ!!』
『ああ』
『絶対ですよ!!!』
「わかった」
送信してスマホを置いた。
咲には感知できていないはずだ。
でも——何か感じているのかもしれない。
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夜、柊から連絡が来た。
『棘がすごくざわついてる。今日は特に』
『ああ』
『何か近い?』
『近い』
少し間があった。
『……そっか』柊が打った。『私にできることある?』
『棘と根を使って、学園の周囲を感知しておいてくれ。異常があれば知らせろ』
『わかった。やる』少し間があった。『17』
『何だ』
『気をつけて』
また同じ言葉だ。
『ああ』
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深夜、一人になった。
部屋で窓の外を見た。
南の方向を見た。
蚜を薄く展開した。
——さらに近い。
昨日より、今朝より、確実に近づいている。
でも止まっている。
まだ来ない。
測っている。考えている。
灰島という人間が、どういう思考をするのか——俺にはまだわからない。
でも。
男が言った言葉が、胃の底にある。
灰島は複雑な人間だ。
憎むだけでは見えないものがある。
俺は灰島を憎んでいるか。
考えた。
——憎んでいる、とは言い切れない。
怒りはある。瑞樹が閉じ込められていた理由。俺が作られた経緯。水瀬透が消えたこと。
でも——憎しみとは少し違う。
まだ、会ったことがない。
顔を知らない。声を知らない。
会ってから——判断する。
俺は蚜を閉じた。
目を閉じた。
二日か、三日か。
灰島が来る。
でも今夜は——眠れる。
ここは知っている場所だ。




