第87話「来訪」
朝、いつも通り学園に向かった。
曇りだ。
昨日のバレンタインの空気がまだ廊下に残っていた。女子が昨日の話をしている。男子が照れた顔をしている。
俺には関係ない話だ。
桐島が廊下で俺に並んだ。
「今日、一限目が終わったら職員室に来てくれ」
「何があった」
「来てからわかる」桐島が静かに言った。「授業中は普通にしていろ」
俺は桐島を見た。
桐島の目が、いつもと少し違った。
---
一限目が終わった。
職員室に向かった。
桐島が待っていた。奥の小会議室に案内された。
ドアを閉めた。
「何があった」
「今朝、榎本から連絡が来た」桐島が静かに言った。「俺宛てに。お前には直接言えない状況だったらしい」
「榎本が直接桐島に」
「ああ」桐島がテーブルに紙を置いた。「内容はこれだ」
俺は紙を見た。
短い文章だった。
*『灰島が動いた。場所は南区。昨夜から気配がある。17に伝えろ。ただし——学園では話すな。』*
俺は紙を見つめた。
「昨夜から」
「ああ」桐島が静かに言った。「俺たちが拠点にいた間、すでに動いていた」
昨夜。
チョコを食べていた。白瀬が騒いでいた。瑞樹が笑っていた。
その間に——灰島が動いていた。
「場所は南区か」
「榎本の廃倉庫に近い」桐島が言った。「榎本は今、別の場所に移動している。安全は確保していると言っていた」
「学園には来るなということか」
「おそらく」桐島が俺を見た。「学園長のことがある。榎本は学園の中で話すことを警戒している」
俺は紙を折った。
「放課後、拠点に戻ってから全員に話す」
「わかった」桐島が頷いた。「今日の授業中は——」
「普通にする」桐島が言った通りだ。「それだけだ」
---
午前中の授業は普通に受けた。
外から見れば何も変わらない。
でも——頭の中は動いていた。
灰島が動いた。
南区。榎本の廃倉庫に近い場所。
偶然じゃない。榎本を狙っているか、俺たちの拠点の場所を把握しているか。
あるいは——両方か。
灰島の過去回帰能力。
過去に戻れる。でも限界がある。だから俺を作った。俺との融合を求めている。
ここまで来た。
灰島が、ここまで来た。
---
昼休み、屋上に出た。
一人だった。
南の方向を見た。
ここから南区は見えない。でも——何かが、そっちにある気がした。
蚜を薄く展開した。
何も感知できなかった。距離がありすぎる。
でも——ざわつく。
式系の端が、ざわついている。
存在の歪みが、遠くにある気がした。
俺はしばらく南の方向を見ていた。
スマホが鳴った。
柊だった。
『屋上にいる?』
『ああ』
『行ってもいい?』
俺は少し考えた。
『来るな。今日は一人でいる』
少し間があった。
『……わかった』
『棘がざわついているか』
『うん。朝からずっと』
柊の棘が感知している。
離れた場所にいても、棘は反応する。
『気にするな。普通にしていろ』
『普通にするのが一番難しいんだけど』
『それでもしろ』
『……うん』少し間があった。『気をつけて』
また同じ言葉だ。
瑞樹も言う。咲も言う。柊も言う。
『ああ』
送信した。
---
放課後、拠点に戻った。
白瀬、朝霧、桐島、瑞樹、奥津が揃っていた。
咲も来ていた。修行の予定があった。
全員を見た。
「話がある」
全員が静かになった。
白瀬が表情を変えた。桐島が頷いた。朝霧が腕を組んだ。
俺は話した。
榎本からの連絡。灰島が動いた。南区。昨夜から気配がある。
話し終えた。
テーブルに沈黙が落ちた。
白瀬が先に口を開いた。
「……来たか」
「来た」
「南区というのは——榎本の廃倉庫に近い」
「ああ」
朝霧が静かに言った。「灰島は俺たちの動きを把握している可能性がある」
「高いと思う」
桐島が続けた。「拠点の場所も、知っているかもしれない」
全員が黙った。
瑞樹が俯いていた。
俺は瑞樹を見た。
「瑞樹」
瑞樹が顔を上げた。
「怖いか」
瑞樹が少し考えた。
「……怖い」瑞樹が静かに言った。「でも——ここにいる」
「ああ」
「逃げない」
「わかった」
咲が手を挙げた。
「師匠!!私はどうすればいいですか!!」
俺は咲を見た。
「学園に行け。普通にしていろ」
「え、でも——」
「咲」
「はい!!」
「お前が普通にしていることが、今一番重要だ。学園の中で何かが起きたとき、お前が動ける状態でいることが必要だ」
咲が少し考えた。
「……わかりました!!でも何かあったら絶対呼んでください!!」
「ああ」
咲が頷いた。力強い頷きだ。
---
夜、白瀬が俺の部屋に来た。
ドアを開けたら立っていた。
「入っていい?」
「ああ」
白瀬が入ってきた。椅子に座った。
しばらく黙っていた。
「怖くないの」白瀬が言った。
「何が」
「灰島が来た。ずっと話に出てきた人間が、実際に動き始めた」
俺は少し考えた。
「怖くない、とは言えない」
「そうか」
「でも——来るのはわかっていた」俺は白瀬を見た。「来ないまま終わる話じゃなかった」
白瀬が頷いた。
「そうだな」白瀬が少し笑った。「俺も——覚悟はある。一応」
「一応、か」
「一応じゃない方が嘘になる」白瀬が正直に言った。「でも——お前の隣にいるって決めた。それは変わらない」
俺は白瀬を見た。
白瀬は真っ直ぐ俺を見ていた。
「……ああ」
それだけだった。
それで十分だった。
---
深夜、一人になった。
窓の外を見た。
南の方向を見た。
灰島。
俺を育てた人間。俺を作った人間。俺を器として設計した人間。
でも——失った何かを取り戻そうとしていた人間でもある。
どんな顔をしているのか、まだ知らない。
声も知らない。
でも——もうすぐ知る。
式系の端っこが、またざわついた。
南の方向から。
俺は窓を閉めた。
目を閉じた。
眠れる。
ここは知っている場所だ。
でも——明日から、少し違う空気になる。
一つの区切りのようなものがつき、一日が終わった。
そして今、何かが始まった。




