86話「バレンタイン」
朝から学園が騒がしかった。
バレンタインだ。
昇降口を入った瞬間、廊下の空気が違った。女子がそわそわしている。男子が妙に意識している。毎年こうなのかもしれないが、四天王になってから初めてのバレンタインだ。
俺には関係ない話だ。
そう思っていた。
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一時間目が始まる前に声がかかった。
「あの、四天王の——」
振り返った。知らない顔だ。一年生。手に小さな袋を持っている。
「よかったら」
「……ありがとう」
受け取った。
一時間目が終わった休み時間。
また声がかかった。
受け取った。
二時間目が終わった休み時間。
また声がかかった。
受け取った。
鞄の中が重くなっていった。
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昼休み、屋上に逃げた。
鞄を置いた。重い。
中身を確認した。
六個あった。
午前中だけで六個だ。
俺は空を見た。
曇りだ。
——今日は長い一日になる。
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昼休みの後半、屋上のドアが開いた。
咲だった。
「師匠!!ここにいた!!」
「ああ」
「探しました!!」咲が鞄をごそごそした。「はい!!」
大きな箱だった。
「手作りです!!昨日三時間かけました!!」
「三時間」
「最初の一時間は失敗しました!!でも残り二時間で全部作りました!!」咲が胸を張った。「朝霧さんに食べてもらったら『悪くない』って言ってもらえました!!朝霧さんが悪くないって言ったら本物です!!」
「そうだな」
「食べてください!!感想も聞かせてください!!」
俺は箱を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして!!じゃあ授業行ってきます!!あ、それと師匠!!」
「何だ」
「今日、モテてますよね!?」咲が目を輝かせた。「廊下で何人もあげてるの見ました!!さすが師匠です!!」
「さすがじゃない」
「でもかっこよかったです!!じゃあ!!」
咲がドアに駆けていった。
元気だ。
いつでも元気だ。
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午後の授業が終わった。
帰りの廊下でまた声がかかった。
受け取った。
また声がかかった。
受け取った。
鞄がさらに重くなった。
桐島が廊下で俺を見つけた。
俺の鞄を見た。
「……大変だな」
「うるさい」
「保管場所が必要なら、職員室に置いていってもいい」
「いい」
桐島が小さく笑った。珍しい。
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昇降口に向かっていたとき、後ろから声がした。
「17」
柊だった。
制服姿だ。鞄を両手で持っている。
俺を見て、少し止まった。
「……帰るの?」
「ああ」
「そっか」
柊が歩いてきた。隣に並んだ。
昇降口に向かって歩いた。
しばらく何も言わなかった。
柊が鞄を持ち直した。
「今日、色々もらってたね」
「ああ」
「多かったね」
「多かった」
また沈黙。
昇降口まであと少しだ。
柊が少し速度を落とした。
「……あのさ」
「何だ」
「えと」
柊が止まった。
俺も止まった。
柊が鞄をごそごそした。
取り出した。
小さな箱だった。包装が丁寧だ。リボンがついている。
柊が俺を見た。
少し、赤かった。
「……渡せなかったら嫌だから。渡す」
真っ直ぐな言い方だった。
迷った末に、迷いを全部振り切って言った言葉だ。
俺は箱を受け取った。
「ありがとう」
柊が少し肩の力を抜いた。
「……うん」
俺は箱を見た。
丁寧に包んである。リボンがきちんと結んである。
俺は少し、笑った。
ほんの少しだけ。口角が上がった程度だ。
でも——笑った。
柊が気づいた。
目が少し丸くなった。
「……笑った」
「そうか」
「笑った。17が笑った」柊が少し呆然とした顔をした。「初めて見たかも」
「そんなことはないだろう」
「いや、こういう笑い方は初めて見た」柊が少し目を細めた。「なんか——いい」
俺は答えなかった。
答えなかったが——悪くなかった。
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昇降口で靴を替えながら、柊が言った。
「ちゃんと食べてね」
「ああ」
「甘いもの得意じゃないって言ってたけど」
「食べる」
「本当に?」
「本当だ」
柊が少し笑った。
「……よかった」
柊が先に出ていった。
俺は靴を替えながら、手の中の箱を見た。
丁寧だ。
渡せなかったら嫌だから渡す、か。
柊らしい言い方だ。
真っ直ぐで、不器用で、でも確実に届く。
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拠点に戻ったら、白瀬が俺の鞄を見て目を輝かせた。
「それ全部チョコ!?」
「ああ」
「何個あるの」
「数えていない」
「すごいじゃないか!!」白瀬が笑った。「俺にも分けてくれ」
「自分でもらえ」
「俺には来なかったんだよ!!」
桐島が台所から言った。「白瀬、うるさい」
「だって!!」
瑞樹が廊下から出てきた。俺の鞄を見て小さく笑った。
「大変だったね」
「ああ」
「全部食べられる?」
「食べる」
「無理しなくていいよ」瑞樹が笑った。「余ったら皆で食べよう」
白瀬が「やった」と言った。
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夜、部屋で柊の箱を開けた。
チョコレートが並んでいた。丁寧に並べてある。
一つ食べた。
甘い。
でも——悪くなかった。
スマホに柊からメッセージが来た。
『食べた?』
『今食べた』
『どうだった』
俺は少し考えた。
『悪くなかった』
少し間があった。
『それ、17の中では最上級の褒め言葉だよね』
白瀬と同じことを言う。
『そうじゃない』
『そうだよ絶対』
俺は答えなかった。
でも——否定もしなかった。
『おやすみ』
『ああ』
スマホを置いた。
チョコをもう一つ食べた。
甘い。
でも今日は——甘くていい気がした。




