第85話「名もないものとの契約」
目が覚めた。
部屋だ。
いつもの部屋。窓から光が入っている。朝か。
起き上がった。
廊下に出た。静かだ。白瀬の部屋のドアが閉まっている。桐島の部屋も。
台所に行った。誰もいない。
珈琲を入れようとした。
ポットがなかった。
——おかしい。
ポットはいつもここにある。桐島が毎朝用意している。
俺は台所を見回した。
何かが、違う。
細部が、ない。
棚の上の瓶。壁のカレンダー。床の傷。
全部——ない。
輪郭だけある。でも中身がない。書き割りみたいだ。
俺は手を見た。
手はある。
でも影がない。
「……夢か」
「正解じゃ!!」
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声がした。
振り返った。
台所のテーブルに、誰かが座っていた。
小さかった。
子どもだ。見た目は十歳前後。長い銀髪。大きな目。頬が丸い。足がテーブルの下に届いていない。ぶらぶらさせている。
笑顔だった。
とても、明るい笑顔だった。
「よう気づいたのじゃ! 普通の人間はずっと気づかんのに!」
声が弾んでいた。嬉しそうだ。本当に嬉しそうだ。
俺は目の能力を走らせた。
解析。
何も、読めなかった。
学園長のときとも違う。鏡が返ってくる感覚もない。
ただ——何もない。
読もうとした先が、無限に続いている感覚だ。
「読もうとしても無駄じゃぞ」少女が足をぶらぶらさせながら言った。「わらわはそういう存在ではないからのう」
「お前は何だ」
「おお、単刀直入じゃのう! 好きじゃそういうの!!」少女が胸を張った。「名乗ろうではないか! わらわは——神をも超えた領域に存在する、いわば天神じゃ!!」
俺はしばらく少女を見た。
「天神」
「そうじゃ!!」少女が満面の笑みで言った。「神より上。概念より上。存在より上。そういうやつじゃ! まあ、人間の言葉で説明するのは難しいんじゃが、とりあえずすごいやつだと思っておけば間違いない!!」
「名前は」
「ないのじゃ」少女があっけらかんと言った。「名前をつけると、名前に縛られる。わらわはそういうのが嫌いじゃ。だから名前はない!!」
名もない何か。
こういうことか。
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少女が椅子から飛び降りた。
着地音がしなかった。
テーブルの周りをぐるぐる歩き始めた。落ち着きがない。
「さてさて! わらわがなぜお前に会いに来たか、わかるかのう?」
「契約だ」
「おお!! 賢いのう!!」少女が目を輝かせた。「そうじゃ契約じゃ!! わらわはたまに、面白い人間に契約を持ちかけることがある! で、お前は面白い人間じゃったから来てみたのじゃ!!」
「面白い、というのは」
「Formula系の能力を持っておる」少女が少し真剣な顔になった。一瞬だけ。「数式で法則に干渉する。わらわの領域に一番近い能力じゃ。人間には珍しい。というかお前だけじゃ、今のところ」
「今のところ」
「作られたからのう」少女がまたぼんやり歩き始めた。「灰島とかいうやつが作った。まあそのへんはわらわには関係ないんじゃが」
俺は少女を見た。
「契約の内容は何だ」
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少女が止まった。
俺を見た。
さっきまでの明るい表情が、少しだけ変わった。
変わった、というより——重なった。明るい顔の下に、別の何かが透けて見えた気がした。
「単純じゃ」少女が言った。「わらわの力を、少しだけ貸す」
「少しだけ、というのは」
「Formula系の出力を、天神の領域まで引き上げる。数式で法則に干渉するだけじゃなく——概念そのものに触れられるようにする」
概念そのものに触れる。
灰島が過去回帰能力の限界を超えようとして、辿り着けなかった領域だ。
「代償は」
少女が俺を見た。
「寿命じゃ」
あっけらかんと言った。
でも声のトーンだけ、少し違った。
「どれだけだ」
「わからん」少女が首を傾けた。「わらわの力を人間が使うと、どれだけ削れるかは使い方による。少し使えば少し削れる。全力で使えば——まあ、かなり削れるのじゃ」
「死ぬか」
「使い方次第じゃ」少女が肩をすくめた。「でも無事では済まない可能性はある。正直に言うのじゃ、わらわは」
正直な天神だ。
「断ることはできるか」
「できるのじゃ!!」少女が元気よく言った。「断ったら断ったで、わらわはふーんと思って帰るだけじゃ。強制はせん。そういう趣味はない」
俺はしばらく少女を見た。
少女は俺を見ていた。ぶらぶらしていた足が止まっていた。
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俺は少し考えた。
寿命が削れる。使い方次第では、かなり。
灰島との決戦がある。学園長との決戦がある。
今の能力で届くかどうか、榎本にも確信が持てないと言われた。
切り札が必要だ。
でも——寿命か。
「一つ聞いていいか」
「なんじゃ!」
「お前はなぜ俺に持ちかける。他にも面白い人間はいるだろう」
少女が少し目を細めた。
また一瞬、重なった。明るい顔の下の、別の何かが。
「お前は——終わらせようとしておるじゃろ」少女が静かに言った。「灰島が作ったものを。瑞樹が閉じ込められていた理由を。全部終わらせようとしておる」少女が少し笑った。「それを見ていたら、来たくなったのじゃ」
「それだけか」
「それだけじゃ」少女があっけらかんと言った。「わらわは理由が複雑なのが嫌いじゃ。シンプルが一番!!」
俺は少女を見た。
シンプルな天神だ。
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俺は息を吐いた。
「受ける」
少女の目が輝いた。
「おお!!」
「ただし条件がある」
「条件!? 人間が天神に条件を出すのか!! 面白いのう!!」少女が笑った。「聞くのじゃ!!」
「必要なときだけ使う。全力は最後の一回だけだ」
少女が少し考えた。
「ふむ」少女が頷いた。「まあそれがお前の寿命を守ることにもなるしのう。いいじゃろ。受け入れるのじゃ!!」
「それともう一つ」
「まだあるのか!!」少女が目を丸くした。「なんじゃ!」
「誰にも言わない。この契約のことは」
少女が少し首を傾けた。
「なぜじゃ」
「心配させたくない」
少女がしばらく俺を見ていた。
それから——ふわっと笑った。
さっきまでの明るい笑顔とも、重なった何かとも違う。
ただ、柔らかい笑顔だった。
「……そうかそうか」少女が言った。「ええ子じゃのう」
「うるさい」
「照れるな照れるな!!」少女がけらけら笑った。「わかったのじゃ。それで——他に何かあるか? せっかく来たのじゃから、なんでも言うてみるがよい!!」
俺は少し間を置いた。
「……もう一つだけ」
「おお!! なんじゃ!!」
「もう一つ、力が欲しい」
少女が止まった。
俺を見た。
今度は笑顔のまま、でも——少し違う目だった。
「ほう」少女が静かに言った。「言うてみるのじゃ」
俺は少女を見た。
…………
少女がしばらく黙っていた。
それから——ゆっくりと、頷いた。
「……なるほどのう」少女が言った。「それを求めるか」
「できるか」
「できるのじゃ」少女が俺を見た。「ただし」
「代償が増えるか」
「当然じゃ」少女があっけらかんと言った。「でもまあ——お前になら貸してやってもいい。面白いからのう!!」
少女が手を差し出した。
小さな手だった。
さっきより、少しだけ——重い気がした。
俺は握った。
何かが——静かに、流れ込んできた気がした。
さっきより深く。
さっきより遠くまで。
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気がついたら、部屋にいた。
本物の部屋だった。
影がある。壁のカレンダーがある。床の傷がある。
朝だった。
俺は手を見た。
何も変わっていない。
でも——何かが、変わった。
Formula系の奥に、何かが増えた気がした。
それだけじゃない。
もう一つ。
形はまだない。でも確かにある。
二つ、増えた。
廊下から白瀬の声がした。
「桐島さーん、珈琲どこですか」
「棚の二段目だ」
「あった! ありがとうございます!」
いつも通りの朝だった。
誰も知らない。
誰も気づいていない。
俺は起き上がった。
今日も、いつも通りだ。




