第84話「切り札」
榎本から連絡が来たのは夜だった。
短いメッセージだった。
『会える。今夜、例の場所。』
俺はスマホを見た。
続報だ。
白瀬が隣でテレビを見ていた。朝霧が本を読んでいた。桐島が書類を整理していた。
誰にも言わなかった。
立ち上がって、鞄を持った。
「どこ行くの」白瀬が聞いた。
「少し外に出る」
「夜に?」
「すぐ戻る」
白瀬が何か言いかけた。でも止まった。
俺の顔を見た。
「……気をつけてね」
「ああ」
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廃倉庫に着いた。
榎本がいた。ランタンの光が揺れていた。今日はいつもより表情が硬かった。
「来たか」
「続報か」
「ああ」榎本が椅子を引いた。「座れ。今日は短い」
俺は座った。
「有栖川透と水瀬透——別人だ」
俺は榎本を見た。
「別人」
「別人だ。有栖川透という人間は実在した。施設Aが稼働していた時期、管理局の外郭団体に所属していた研究者だ。でも——十二年前に死んでいる」
「死んでいる」
「交通事故だ。記録上は」榎本が静かに言った。「でも学園長は今も生きている。有栖川透の名前を使って、生きている」
俺は少し考えた。
「死んだ人間の名前を借りた」
「そうだ。完璧な経歴を作るために——すでに死んでいる人間の名前と経歴を乗っ取った。論文も受賞歴も、全部有栖川透の本物の実績だ。学園長はそれを自分のものとして使っている」
「本当の名前は」
榎本が少し間を置いた。
「わからない」
俺は榎本を見た。
「わからない、というのは」
「調べられなかった、じゃない」榎本が目を伏せた。「記録がない。どこにも。生まれた記録も、育った記録も、能力の計測記録も——何もない」
テーブルに沈黙が落ちた。
「記録がない人間」
「ああ」榎本が俺を見た。「お前みたいに、な」
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しばらく沈黙が続いた。
ランタンの光が揺れた。
「一つだけ見つけたものがある」榎本が続けた。「学園長が学園に赴任してくる三年前の記録だ。断片的だが——施設Aと関係する組織に、名前のない人間が出入りしていた記録がある」
「名前のない人間」
「写真もない。記録には『関係者』とだけ書いてある。でも——その時期と学園長の赴任前の空白が、ぴったり一致する」
俺は整理した。
記録がない。本当の名前がない。施設Aと繋がりがある組織に出入りしていた。有栖川透の名前を乗っ取って学園長になった。
「水瀬透の名前と一致したのは」
「偶然じゃないと思う」榎本が静かに言った。「学園長は水瀬透を知っていた。施設Aで接点があった可能性が高い。透という名前を使ったのは——何かの意図があると思う」
「水瀬透への、何かか」
「わからない。でも——偶然じゃない」
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榎本がテーブルに手を置いた。
「もう一つ話がある」
「聞く」
「お前には切り札が必要だ」
俺は榎本を見た。
「灰島との決戦になったとき、Formula:2で対抗できるかもしれない、とは話した。でもそれだけじゃ足りない可能性がある」
「何が足りない」
「灰島の向こうに——学園長がいる」榎本が静かに言った。「灰島を倒した後、学園長が動く。そのとき、お前の今の能力で足りるかどうか。俺には確信が持てない」
「切り札とは何だ」
榎本が少し間を置いた。
「……お前が自分で見つけるものだ。俺が渡せるものじゃない」
「それは答えじゃない」
「答えだ」榎本が俺を真っ直ぐ見た。「俺が言えるのはここまでだ。でも——お前はすでに気づいているんじゃないか」
俺は榎本を見た。
気づいている。
何かに、気づきかけている。
形がない。輪郭がない。でも——ある。
確かに、ある。
「……気づいているかもしれない」
「なら十分だ」榎本が立ち上がった。「育てろ。その気づきを」
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廃倉庫を出た。
夜の南区は静かだった。
歩きながら、頭の中で整理した。
学園長の本当の名前はわからない。記録がない。施設Aと繋がりがある。水瀬透の名前を意図的に使っている。
そして——切り札。
俺が気づきかけている何か。
形がない。輪郭がない。
でも確かに、ある。
夜空を見上げた。
星が見えた。
珍しい。最近ずっと曇りだったのに。
俺はしばらく立っていた。
切り札。
名もない何か。
——そういうことか。
形になりそうで、ならなかった。
でも方向は、見えた気がした。
俺は歩き出した。
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拠点に戻ったのは十時過ぎだった。
白瀬がソファで半分眠っていた。
俺を見て目を開けた。
「おかえり」
「ああ」
「どこ行ってたの」
「散歩だ」
「夜に散歩」白瀬が伸びをした。「何かあった?」
「何もない」
「そっか」白瀬がソファに横になった。「なら良かった。おやすみ」
「ああ」
白瀬の目が閉じた。
三十秒で寝息が聞こえた。
誰も気づかなかった。
何も変わらない夜だ。
でも俺の中で——何かが、静かに動き始めていた。
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部屋に戻った。
窓の外を見た。
星がまだ出ていた。
切り札。
名もない何かとの契約。
その輪郭が——まだ見えない。
でも。
明日、見えるかもしれない。
俺は目を閉じた。




