第80話「起源」
廃倉庫に着いたのは午前十時だった。
榎本がいた。いつもより早く来ていた。ランタンではなく、今日は窓のカーテンを少し開けていた。薄い光が差し込んでいる。
テーブルの上に、厚いファイルが一冊置いてあった。
今まで見せてもらったものより、分厚い。
榎本が俺を見た。右肩に視線が止まった。
「昨日の刺客か」
「浅い」
「そうか」榎本が椅子を引いた。「座れ。今日は長くなる」
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榎本が話し始めた。
最初は静かな声だった。
「灰島の過去回帰能力には、限界がある。お前も知っているな」
「ああ」
「どれだけ遡れるか。どれだけ正確に介入できるか。一人の人間の能力では、時間軸への干渉に上限がある」榎本がテーブルを見た。「灰島はその限界を、ずっと憎んでいた」
「何を変えたかったんだ」
「それは——まだ後だ」榎本が俺を見た。「まず、灰島がどうやって限界を超えようとしたか。そこから話す」
俺は頷いた。
「能力というのは、解釈で決まる部分がある。炎系の能力者が『熱を出す』と解釈するか『酸素を燃焼させる』と解釈するかで、出力も範囲も変わる。灰島はその解釈を、根本から変えようとした」
「能力の解釈を変える」
「そうだ」榎本が続けた。「過去回帰能力を——時間を遡る能力として解釈するのをやめた。時間の流れを数値として捉え、その数値に直接干渉する能力として再定義しようとした」
俺は少し考えた。
「数値として捉えると何が変わる」
「数は無限だ」榎本が静かに言った。「時間を遡るには限界がある。でも数に干渉するなら——どこまでも遡れる。過去も未来も、時間軸そのものも、全部数値の集合体として扱える」
テーブルに沈黙が落ちた。
「灰島は気づいたんだ。太古から今まで、数というのはほぼ無限に存在している。その数の体系に直接触れることができれば——過去回帰の限界を根本から壊せる、と」
「でも一人の人間にはできなかった」
「できなかった」榎本が頷いた。「数という概念に干渉するには、通常の能力体系では追いつかない。灰島の過去回帰能力では、数の体系に触れることができなかった」
俺は榎本を見た。
「だから——Formula系を作ろうとした」
榎本が止まった。
俺を見た。
「……気づいていたか」
「今、繋がった」
榎本が小さく息を吐いた。「そうだ。Formulaとは数式だ。法則への直接干渉——つまり、数という概念そのものに触れる能力だ。灰島はその能力を持つ人間を作り出し、自分に付与することで——過去回帰能力の解釈を根本から書き換えようとした」
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しばらく沈黙が続いた。
俺は整理していた。
灰島の過去回帰能力。その限界。数という無限の体系への着眼。Formula系という数式の能力。それを作り出して自分に付与する。
全部が、一本の線で繋がった。
「俺は」俺は静かに言った。「その器として作られた」
「そうだ」榎本が答えた。「計測不能の能力者——式系、Formula系、彙武。三系統を持つ存在を作ることが、灰島の研究の目標だった」
「なぜ三系統が必要だ」
「Formula系だけでは不安定だ」榎本がファイルを開いた。「数式は精度が命だ。誤差があれば全てが崩れる。式系はその誤差を補正する。存在への刻み込みで、数式を固定する」榎本がページをめくった。「彙武は——実装だ。計算した結果を、現実に出力する手段だ」
俺は自分の手を見た。
式系。Formula系。彙武。
三つが揃っている。
灰島が設計した通りに。
「完成に最も近い存在、と前に言っていたな」
「ああ」榎本が静かに言った。「お前は——ほぼ完成している。灰島の設計通りに育った。後は付与するだけだ」
「付与」
「過去回帰能力をお前に流し込む。あるいはお前の能力を灰島が取り込む」榎本の目が少し暗くなった。「どちらかはわからない。でも灰島が求めているのは——お前の能力との融合だ」
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テーブルの上が静まり返った。
ランタンの光が揺れた。
俺はしばらく何も言わなかった。
融合。
灰島が俺を研究所で育てた理由。瑞樹を枷として使い続けた理由。施設Aで研究し続けた理由。
全部、これのためだ。
「灰島は——何を変えたいんだ」俺は聞いた。「過去回帰の限界を超えて、何をする」
榎本が少し間を置いた。
「……ここからは、俺の推測も混じる」
「聞く」
「灰島は——失った何かを取り戻そうとしている」榎本が窓の外を見た。「過去に戻りたい理由がある。でも今の能力では届かない過去がある。どれだけ遡っても、届かない場所がある」
「その場所とは」
「わからない」榎本が首を振った。「灰島は一度も話さなかった。でも——全ての研究の根底に、それがある気がしていた」俺を見た。「数十年かけて研究所を作り、能力者を集め、お前を育てた。それだけのことをする理由が、ただの力への渇望だとは思えない」
俺は榎本を見た。
「……お前は、灰島を知っていたか」
「知っていた」榎本が静かに答えた。「昔は——別の人間だった」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
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榎本がファイルを閉じた。
テーブルに置いて、俺を見た。
「最後の話は以上だ」
「……ああ」
「Formula系の能力——お前はまだ全部を使っていない」
「Formula:2以降は使っていない」
「因果逆転」榎本が言った。「それを使えば——灰島の融合を拒否できるかもしれない。因果を逆転させれば、付与の方向を反転できる」
俺は少し考えた。
「使ったことがない」
「わかってる。でも覚えておけ」
榎本が立ち上がった。
棚から、小さな箱を取り出した。
テーブルに置いた。
「これを渡す」
「何だ」
「施設Aの全記録だ。俺が十三年かけて集めたものだ。コピーじゃない。原本だ」
俺は箱を見た。
「お前に持っていてほしい」榎本が静かに言った。「俺が持っていると——狙われる。昨日の刺客がその証拠だ」
「お前はどうする」
「俺は動く」榎本が俺を見た。「管理局の別派閥——昨日の連中の上にいる人間を、特定する。そっちは俺がやる」
「一人でか」
「十三年やってきた」榎本が少し笑った。「今更怖くはない」
俺は箱を手に取った。
重かった。
十三年分の記録だ。水瀬透のことも、施設Aのことも、全部入っているかもしれない。
「榎本」
「何だ」
「水瀬透のことが——この中に入っているか」
榎本が止まった。
長い沈黙が落ちた。
「……入っている」榎本が静かに言った。「全部入っている」
「瑞樹に渡していいか」
榎本がしばらく俺を見ていた。
それから——目を閉じた。
「……渡してくれ」
声が、少しだけ違った。
いつもの淡々とした榎本じゃない声だった。
俺は箱を鞄に入れた。
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帰り際、榎本が言った。
「一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「お前は——灰島を倒した後、どうするつもりだ」
俺は少し考えた。
「決めていない」
「決めていない、か」榎本が少し目を細めた。「正直なやつだ」
「お前には関係ないか」
「関係ある」榎本が静かに言った。「お前が——ちゃんと先に進むかどうか、見届けたい」
俺は榎本を見た。
榎本は窓の外を見ていた。
「水瀬は言っていた。作られた存在でも、生きる理由は自分で決められる、と」
俺は何も言えなかった。
「お前がどんな理由を選ぶか——俺は見たい」
俺はしばらく榎本を見ていた。
それから頷いた。
「……見ていろ」
榎本が小さく笑った。
俺は廃倉庫を出た。
箱が重かった。
十三年分の記録。灰島の設計。Formula系の意味。水瀬透のこと。
全部、持っている。
空が青かった。
晴れだ。
昨日も晴れだった。
俺は歩き出した。
灰島が動く前に——こっちが先に動く。
全部終わらせる。
そのための答えが、今日揃った。




