第75話「名前」
朝、榎本から連絡が来た。
『明後日、会える。最後の話をする。覚悟しておけ。』
覚悟、か。
榎本がそういう言葉を使うのは初めてだった。
今まで淡々と情報を渡してきた人間が、覚悟という言葉を使った。
それだけで、次の接触が何を意味するか——大体わかった。
俺は返信した。
『わかった。行く。』
スマホを置いた。
窓の外は晴れていた。珍しい。最近ずっと曇りだった。
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午前中、学園に行った。
授業中、桐島が視線を寄越した。榎本から連絡が来たことを察している。聡いやつだ。
昼休みに廊下で短く話した。
「明後日、最後の接触だ」
「最後、というのは」
「榎本がそう言った」
桐島が少し考えた。「核心を全部話す、ということか。それとも——榎本自身が動く、ということか」
「わからない。でもどちらかだと思う」
「どちらにしても」桐島が静かに言った。「その後、灰島が動く」
「ああ」
桐島が頷いた。それ以上は言わなかった。
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放課後、咲の修行を見た。
菌根菌の切り替えが、だいぶ滑らかになっていた。感知から攻撃へ、攻撃から感知へ。途切れずに続いている。
「いい」
咲が顔を上げた。「本当ですか!?」
「本当だ。二週間前と別人みたいだ」
咲が少し赤くなった。照れているのか、嬉しいのか。たぶん両方だ。
「師匠に言われると——なんか、実感が出ます!」
「自分で実感しろ」
「します。でも師匠に言われた方が嬉しいです!」
俺は答えなかった。
答えなかったが——悪い気はしなかった。
「次は射程を伸ばす。今は二十八メートルだ。三十五まで上げる」
「三十五」咲が目を丸くした。「いきなり七メートルも」
「いきなりじゃない。段階的にやる。でも目標は三十五だ」
「……やります」咲が頷いた。力強い頷きだ。「やります、師匠」
俺は頷いた。
こいつは言ったことをやる。それがわかっているから、高い目標を言える。
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夕方、拠点に戻った。
瑞樹が台所にいた。一人だった。奥津は朝霧と外に出ている。白瀬と桐島は別室だ。
俺が入ると、瑞樹が振り返った。
「おかえり」
「ああ」
椅子を引いた。座った。
瑞樹がお茶を用意した。湯呑みが二つ置かれた。
いつもの流れだ。
でも今日は——話すと決めていた。
しばらく沈黙が続いた。
瑞樹が先に口を開いた。
「何か言いたそうな顔してる」
「そうか」
「ずっとそういう顔だった。今日」
俺は湯呑みを置いた。
「榎本から、名前を聞いた」
瑞樹の手が止まった。
「施設Aで——お前の傍にいた研究員の名前だ」
瑞樹が俺を見た。
静かな目だった。怖がっているわけじゃない。ただ、覚悟している目だ。
「……聞かせて」
「水瀬、透という」
台所が静まり返った。
瑞樹は動かなかった。
湯呑みを両手で包んだまま、テーブルを見ていた。
長い沈黙が落ちた。
俺は何も言わなかった。
待った。
瑞樹が、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」瑞樹が小さく言った。「水瀬、透」
自分で声に出して確かめるように言った。
「榎本は——何か、言ってたか」
「優しい人間だと言っていた研究員がいた、と聞いた。それが水瀬だった」俺は静かに続けた。「榎本は、水瀬が消されたあとに降りた。理由は聞かなかった。でも——」
「わかってる」瑞樹が静かに言った。「榎本は、水瀬のことを——大事に思っていたんだと思う」
俺は頷いた。
榎本が水瀬透の名前を言ったとき、続きを言えなかった。俺は、ということだ。俺の、という言葉の先を、飲み込んだ。
どういう関係だったかは、聞かなかった。
でも瑞樹には伝えた。
「……ありがとう」瑞樹が言った。「話してくれて」
「遅くなった」
「ううん」瑞樹が首を振った。「ちゃんと、話してくれた。それだけでいい」
沈黙が続いた。
でも重くなかった。
瑞樹が窓の外を見た。夕暮れだ。空が赤い。
「水瀬さんは」瑞樹が静かに言った。「いつも私に話しかけてくれた。施設Aで。子どもの私に——ちゃんと話しかけてくれた」
「……そうか」
「灰島は私を研究対象としか見ていなかった。でも水瀬さんは——名前を呼んでくれた」瑞樹が湯呑みを置いた。「それだけで、十分だったんだと思う。あの頃の私には」
俺は瑞樹を見た。
名前を呼んでくれた。
それだけで十分だった。
施設の中で、名前を持つということの意味を——瑞樹は子どもの頃から知っていた。
俺は何も言えなかった。
言葉が見つからなかったわけじゃない。
ただ——今は、黙っている方がいい気がした。
瑞樹が俺を見た。
「17」
「何だ」
「あなたも、ちゃんと名前がある」瑞樹が静かに言った。「終わったら——ちゃんと呼ばれる場所に、いてほしい」
俺はしばらく、その言葉の重さを確かめた。
終わったら。
灰島との決着が終わったら。
「……ああ」
それだけ言った。
瑞樹が小さく頷いた。
夕暮れの光が、台所に差し込んでいた。
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夜、部屋に戻った。
明後日、榎本と会う。最後の話をする。
その後、灰島が動く。
全部が、収束に向かっている。
俺は目を閉じた。
終わったら、ちゃんと名前がある場所に。
瑞樹の言葉が、胃の底に沈んでいった。
棚に上げなかった。
今回は——ちゃんと、受け取った。
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深夜、柊からメッセージが来た。
『最近、夢を見る。地下にいる女性の夢。前より、顔が見えそうな気がする』
俺は画面を見た。
夢。
柊が繰り返し見ている夢。地下の女性から届いていた、と聞いていた。
その女性は——瑞樹だ。
柊はまだ知らない。
でも夢が鮮明になっている。実が発現して、何かが繋がり始めているのかもしれない。
『怖いか』
『怖くない。なんか、悲しい感じがする。でも悪くない』
『そのまま見ていろ。答えは出る』
少し間があった。
『……うん。おやすみ』
『ああ』
スマホを置いた。
柊の夢と瑞樹が繋がるとき——柊は何を感じるだろうか。
それはまだ、先の話だ。
でも近づいている。
全部が、少しずつ、近づいている。




