第73話「波の下」
朝、桐野から連絡が来た。
いつもは白瀬経由だった。今回は直接、俺のスマホに来た。
番号を知っていたのか。
当然知っていた。管理局の人間だ。
『今日の午後、動きます。白瀬君と朝霧君を一時的に別室に移します。安全は確保します。』
一時的に別室。
つまり、桐野が動く間、二人を巻き込まないための措置だ。
俺は返信した。
『わかった。二人を頼む。』
送信して、スマホを置いた。
桐島が珈琲を持ってきた。
「桐野さんから来たか」
「ああ。今日動く」
「早いな」桐島が椅子に座った。「組織図を受け取って一日で動くとは」
「待てない理由があるんだろう」
「副局長が気づいた可能性がある」桐島が静かに言った。「桐野さんが動いたことを、嗅ぎつけた」
俺は窓の外を見た。曇りだ。
「先手を打たれる前に動く、ということか」
「そういうことだ」桐島が珈琲を飲んだ。「今日は——何が起きてもおかしくない」
---
午前中は静かだった。
静かすぎた。
瑞樹が台所で何かしていた。奥津が本を読んでいた。俺は部屋で組織図のコピーを見ていた。
副局長。
名前は西堂。五十代。管理局に二十年以上いる。改革派として知られている。
笑える話だ。
改革の内側に、灰島の意図が埋め込まれていた。
二十年かけて作った根。それを一日で引き抜こうとしている桐野の動きは——正直、無謀に近い。
でも桐野は動いた。
それだけのものを、桐野は持っているということだ。
---
[管理局本部・白瀬視点]
午後一時、桐野の部下が会議室に来た。
「白瀬さん、朝霧さん。場所を移っていただけますか」
白瀬は朝霧と目を合わせた。朝霧が微かに頷いた。
「わかりました」
別室に通された。小さな部屋だ。窓がない。でも鍵はかかっていない。
部下が出ていった。
二人きりになった。
「始まったな」白瀬が小声で言った。
「ああ」朝霧が壁に背を預けた。
しばらく沈黙が続いた。
廊下から足音が聞こえた。複数だ。速い。
白瀬は耳を澄ませた。
会議室の方向だ。上層部のフロアだ。
何かが——動いている。
二十分後、廊下が騒がしくなった。複数の声が重なって、言葉が聞き取れない。でも雰囲気はわかる。
動揺だ。
組織の中枢が、揺れている。
朝霧が白瀬を見た。「桐野さんが動いた」
「動いた」白瀬が頷いた。「あとは——どこまで持つか、だ」
そのとき、ドアが開いた。
桐野だった。
顔が、いつもより硬かった。でも目が違った。やり切った目だ。
「二人とも、今すぐ出られますか」
「出られます」白瀬が立ち上がった。「何があったんですか」
「西堂副局長を、正式に告発しました」桐野が静かに言った。「施設Bの不正運営、管理局資産の私的流用、収容者の人権侵害。証拠は揃っています」
白瀬が息を呑んだ。
「副局長は」
「現在、別室で事情聴取中です。しばらく動けません」桐野が二人を見た。「今のうちに出てください。車を用意してあります」
朝霧が立ち上がった。「桐野さんは」
「私はここに残ります」桐野が真っ直ぐ言った。「やることがまだあります」
「……危なくないですか」白瀬が言った。
「大丈夫です」桐野が少し笑った。「私にも、二十年分の根があります」
---
[17視点]
午後三時を過ぎた頃、白瀬から連絡が来た。
『今から戻る。』
たった四文字だった。
俺はスマホを握ったまま、しばらく動かなかった。
桐島が隣で息を吐いた。
「帰ってくるか」
「ああ」
「よかった」桐島が珈琲を持って立ち上がった。「夕飯を多めに作る」
俺は何も言わなかった。
言わなかったが——何かが、胸の中で静かに緩んだ。
---
一時間後、玄関のドアが開いた。
白瀬が入ってきた。朝霧が続いた。
白瀬が俺を見た。
「ただいま」
いつもと同じ口調だった。わざと同じにしている。
「ああ」
朝霧が頷いた。それだけだ。でもそれで十分だった。
瑞樹が台所から顔を出した。奥津が廊下から出てきた。
拠点に、全員が揃った。
白瀬が鞄を置いて、テーブルに座った。
「色々聞きたいことがあるだろうけど——飯、先にいい? 管理局の飯がまずくて死にそうだった」
桐島が台所から言った。「もうすぐできる」
「桐島さん最高」白瀬が伸びをした。「生きてて良かった」
朝霧が小さく息を吐いた。呆れているのか、安堵しているのか、わからない。
たぶん、両方だ。
---
夕飯が終わって、全員でテーブルを囲んだ。
白瀬が管理局での二日間を話した。朝霧が補足した。
桐野が動いた経緯。副局長の告発。会議室の騒動。
「桐野さんは大丈夫なのか」俺は聞いた。
「大丈夫だと思う」白瀬が言った。「告発の証拠は複数の場所に保管してある、と言っていた。副局長側が証拠を潰せない状況を作ってから動いたんだ。用意周到なんだよ、あの人」
「二十年分の根、と言っていたな」
「そう言ってた」白瀬が少し目を細めた。「……信頼できる人だ」
朝霧が静かに言った。「ただ」
全員が朝霧を見た。
「副局長は今、事情聴取中だ。でも——終わりじゃない」
テーブルが静まった。
「副局長が灰島と繋がっていた。告発されても、灰島との繋がりは切れない。副局長が動けなくなった分、灰島が直接動く可能性がある」
俺は頷いた。
「わかってる」
「灰島が動く前に——俺たちが動けるか、どうかだ」
全員が黙っていた。
白瀬が天井を見た。「せっかく帰ってきたのに、物騒な話だな」
「現実だ」
「わかってる」白瀬が笑った。「でも今夜だけは——物騒な話、休憩していいか」
俺は少し考えた。
「ああ」
白瀬が大げさに息を吐いた。「17が許可してくれた。奇跡だ」
「うるさい」
笑い声が上がった。
テーブルの上の空気が、少しだけ柔らかくなった。
---
深夜、一人で窓の外を見ていた。
副局長が動けなくなった。
でも朝霧の言う通り、終わりじゃない。
灰島はまだどこかにいる。場所を持たない。どこにでもいて、どこにもいない。
おれは知っている。あいつの能力を、そう、、、
【過去回帰能力】
その限界を超えるための器。
それが俺だとしたら——灰島が次に動くとき、標的は俺だ。
でも。
俺には今、隣にいる人間がいる。
白瀬。朝霧。桐島。瑞樹。奥津。咲。
そして柊。
灰島が俺を研究所に閉じ込めていた頃には、なかったものだ。
スマホを取った。
榎本に短いメッセージを送った。
『副局長が動けなくなった。次は灰島が動く。準備はあるか。』
返信はすぐ来た。
『待っていた。次会うとき、最後の話をする。』
最後の話。
俺は画面を見つめた。
最後の話が何を意味するか——想像はついた。
でも確かめるのは、次会ったときだ。
窓の外は暗い。
でも夜明けは来る。
必ず来る。




