第71話「交渉と動き」
朝、桐野から連絡が来た。
白瀬のスマホへの転送だったが、俺のところにも回ってきた。
『交渉継続中。上層部は施設B侵入の経緯と、連れ出した人物の身柄を要求している。今日中に回答を出す。』
俺はその文章を読んで、スマホを置いた。
連れ出した人物。
瑞樹のことだ。
上層部が瑞樹を求めている。施設Bに収容されていた計測不能の能力者。灰島の研究対象。管理局にとっても——何かしらの価値がある存在だということだ。
桐島が隣から画面を覗いた。
「瑞樹を渡せ、ということか」
「そういうことだ」
「渡すわけにはいかない」
「当然だ」
桐島が珈琲を置いた。「上層部が瑞樹を求める理由——灰島との繋がりがあるとすれば、瑞樹を手に入れることで灰島に何かを渡せる。あるいは灰島への交渉材料にできる」
「どちらにしても、瑞樹が危険にさらされる」
「ああ」桐島が静かに言った。「桐野さんが何を切り札に交渉しているか——そこが鍵だ」
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午前中、瑞樹に話した。
台所で向かい合った。瑞樹は俺の話を黙って聞いていた。
話し終えた。
瑞樹がしばらく沈黙した。
「……管理局が私を求めている」
「ああ」
「灰島と繋がっている可能性がある上層部が」
「可能性がある、と言った」
「でも高い、と思ってる」
俺は答えなかった。
答えなかったが、瑞樹には伝わった。
「そう」瑞樹が窓の外を見た。「また、か」
また。
施設Aから施設Bへ。そして今度は管理局へ。
誰かに求められ続ける。自分の意志じゃない場所に置かれ続ける。
「渡さない」俺は言った。
瑞樹が俺を見た。
「渡さない。どこにも」
瑞樹はしばらく俺を見ていた。
それから小さく、息を吐いた。
「……わかった」
それだけだった。
でも瑞樹の目が、少しだけ変わった。
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[管理局本部・白瀬視点]
会議室は広かった。
無駄に広い。テーブルが長い。上層部の人間が三人座っていた。名前は知っている。顔も知っている。でも今日初めて、同じ部屋にいる。
桐野が隣にいた。朝霧が反対側にいた。
上層部の一人が口を開いた。五十代の男だ。目が細い。笑っているのか怒っているのかわからない顔だ。
「白瀬君、朝霧君。施設B侵入の件、説明してもらえますか」
白瀬は答えた。「監視任務の延長です。対象の行動追跡の結果、施設Bへの侵入が必要と判断しました」
「判断したのは誰ですか」
「私です」
嘘だ。でも嘘じゃない部分もある。
「収容者を連れ出した理由は」
「保護の必要があると判断しました」
「その収容者は現在どこに」
白瀬は一瞬だけ桐野を見た。桐野が微かに頷いた。
「安全な場所にいます」
「場所を教えてもらえますか」
「それはお答えできません」
会議室が静まった。
上層部の男の目が細くなった。
「白瀬君、これは要請ではなく命令です」
「命令であっても、お答えできません」
朝霧が静かに言った。「収容者の安全が確保できない環境に、情報を渡すわけにはいきません」
上層部の男が桐野を見た。「桐野課長、部下の管理はどうなっているんですか」
桐野が口を開いた。
「二人は正しい判断をしています」
会議室の空気が変わった。
「施設Bの収容者は、正式な手続きを経ずに収容されていました。管理局の規定に反しています。その人物を保護することは——むしろ管理局の義務です」
上層部の男が桐野を見た。目が笑っていない。
「桐野課長、あなたは何を言っているかわかっていますか」
「わかっています」桐野が静かに、でも真っ直ぐ言った。「施設Bの運営実態について、正式な調査を要請します。本日付けで」
会議室が凍った。
白瀬は前を向いたまま、内心で息を吐いた。
桐野さんは——本気だ。
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[17視点]
昼過ぎ、榎本から連絡が来た。
『今夜会える。例の場所。早めに来い。』
早めに、というのが引っかかった。
何かあったのか、それとも話す量が多いのか。
桐島に伝えた。桐島が頷いた。
「気をつけて行け」
「ああ」
「戻ったら全部話せ」
「わかってる」
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夕方、南区に向かう前に柊からメッセージが来た。
『実の使い方、少しわかってきた気がする』
『どんな感じだ』
『棘で綻びを見つけて、そこに——何か、育てるみたいに能力を入れられる気がする。うまく説明できないけど』
俺は少し考えた。
棘で綻びを見つけて、実で何かを育てる。
攻撃じゃない。でも干渉だ。綻びから相手の能力に入り込んで、内側から変質させる——そういう使い方になるかもしれない。
『今は使おうとするな』
『なんで』
『使い方を間違えると、自分に返ってくる可能性がある。感覚だけ確かめて、触るな』
少し間があった。
『……わかった。ありがとう』
『ああ』
送信して、スマホをしまった。
柊の能力が育っている。
棘・凪・実。三つが揃い始めている。
根と常緑が発現したとき——柊は、今とは別の何かになる。
それが楽しみなのか、怖いのか、俺には判断がつかなかった。
たぶん、両方だ。
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夜、廃倉庫に着いた。
榎本がいた。いつもより早く来ていたらしい。ランタンの他に、テーブルの上に紙が広げられていた。
「座れ」
座った。
「今日は何があった」
「管理局が瑞樹を要求した」俺は言った。「桐野が施設Bの正式調査を要請した」
榎本の目が少し動いた。「桐野が動いたか」
「知っているか」
「名前は知っている。いい人間だ」榎本が紙を俺の方に向けた。「だからこそ——危ない」
俺は紙を見た。
組織図だ。管理局の内部構造。名前が並んでいる。
榎本が一点を指した。
「上層部の中に——灰島と直接繋がっている人間がいる」
俺はその名前を見た。
知らない名前だった。でも役職は知っている。
管理局の、かなり上だ。
「こいつが施設Bを作った張本人だ」榎本が静かに言った。「灰島に協力して、管理局の設備と権限を流していた。十三年前からずっと」
「桐野はこれを知っているか」
「知らない。だから動けた。知っていたら——とっくに消されていた」
俺は組織図を見た。
「これを桐野に渡せるか」
「渡せる」榎本が俺を見た。「でも渡したら、桐野は直接その人間と対立することになる。守れるか」
俺は少し考えた。
「守る」
榎本が俺を見た。長い間、見た。
それから頷いた。
「わかった」榎本が組織図を折った。「持っていけ」
俺は受け取った。
「もう一つ聞いていいか」
「何だ」
「施設Aで——消えた研究員の名前を、教えてくれ」
榎本が止まった。
長い沈黙が落ちた。
榎本が窓の外を見た。暗い夜だ。
「……水瀬、という」榎本が静かに言った。「水瀬 透。俺の——」
榎本が止まった。
続きは言わなかった。
でも俺には、なんとなくわかった。
聞かなかった。
「……わかった」
榎本が頷いた。目が、少し違う色をしていた。
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拠点に戻ったのは深夜だった。
桐島が起きていた。
組織図を見せた。桐島が食い入るように見た。
「……これは」
「本物だと思う」
「桐野さんに渡すか」
「明日、白瀬に連絡する。桐野さんへの渡し方を考えてもらう」
桐島が顔を上げた。「これが本物なら——管理局の内部が揺れる」
「揺れるな」
「その隙に灰島が動く可能性がある」
「わかってる」俺は椅子に座った。「でも動かないと、白瀬と朝霧が帰ってこられない」
桐島が頷いた。
俺は天井を見た。
水瀬、透。
瑞樹の傍にいた人間。榎本が降りる決断をした理由。
灰島に消された人間。
その名前を、明日瑞樹に話すべきかどうか——まだ、わからない。
でも持っておく。
いずれ、必要になる。




