第70話「残ったもの」
午前十時、桐野が来た。
黒い車だった。助手席に桐野が乗っていた。後部座席は空だった。
白瀬が玄関で振り返った。
「行ってくる」
いつもと同じ口調だった。わざと同じにしている。
「ああ」
朝霧が俺を見た。一秒だけ見て、それから歩き出した。
車のドアが閉まった。エンジン音が遠くなった。
角を曲がって、見えなくなった。
俺は玄関の前に立っていた。
しばらくそこにいた。
特に感情はなかった。
あるにはあったが、整理がつかないので棚に上げた。
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拠点の中が静かだった。
桐島は外に出ていた。情報収集だ。奥津は瑞樹と別室にいる。
俺はテーブルに座って、榎本から聞いた話をもう一度頭の中で整理した。
施設A。計測不能の能力者の研究。瑞樹が先にいた。その研究結果が土台になった。消えた研究員。
ピースは増えている。でもまだ全部は繋がらない。
廊下から足音がした。
瑞樹だった。
俺を見て、少し止まった。
「一人か」
「ああ」
「白瀬と朝霧は」
「管理局に行った」
瑞樹が台所に入ってきた。湯を沸かし始めた。いつもの動作だ。
「……心配してる?」
「している」俺は答えた。「でも待つしかない」
「そうね」
湯呑みが二つ置かれた。俺は向かいの椅子を引いた。
瑞樹が座った。
しばらく沈黙が続いた。
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「榎本と話した」俺は言った。
瑞樹の手が湯呑みの上で止まった。
「そうか」
「施設Aのことを聞いた。お前がいたことも」
「……話したんだね、榎本は」
「少しだけ」
瑞樹が湯呑みを両手で包んだ。窓の外を見た。
「何を聞いた」
俺は少し考えた。
「消えた研究員がいた、と聞いた」
瑞樹の肩が、かすかに動いた。
「灰島に消された。お前の傍にいた人間だと——榎本は言った」
長い沈黙が落ちた。
瑞樹は窓の外を見たままだった。
「……そう」瑞樹が静かに言った。「榎本は、そこまで話したのか」
「名前は聞かなかった」
「そう」
また沈黙。
瑞樹が湯呑みを置いた。
「優しい人だった」
それだけだった。
俺は何も聞かなかった。
瑞樹が話す気になったとき、話す。今日はここまでだ。
でも——言えた。それだけで、何かが少し動いた気がした。
「……ありがとう」瑞樹が小さく言った。
「何が」
「話してくれて」
俺は答えなかった。
湯呑みを持った。お茶が少し冷めていた。
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午後、スマホに柊からメッセージが来た。
『今日、何かあった。能力が——うまく説明できないけど、変わった気がする』
俺は少し考えて返した。
『どんな感じだ』
『育てている、みたいな感覚。今まで知覚するだけだったのに、何かを……育てられる気がした』
実、だ。
俺は画面を見つめた。
『いつから』
『今日の昼休み。急に。咲ちゃんの修行を遠くから見てたら——なんか、芽みたいなものが見えた気がした』
咲の修行を見ていた。それが引き金になったのか。
『怖いか』
『怖くはない。でもびっくりした』少し間があって、続きが来た。『これって、新しい能力?』
『そうだと思う』
『どうすればいい』
俺は少し考えた。
『無理に使おうとするな。芽は急いで引っ張ると折れる』
既読がついて、少し間があった。
『……師匠みたいなこと言う』
『うるさい』
柊から小さく笑ったような返信が来た。絵文字はなかった。でも笑っているのがわかった。
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夕方、桐野から白瀬のスマホに連絡が入った。
転送されてきた。
内容は短かった。
『今日は帰せない。明日以降、交渉を続ける。二人は無事。』
俺はその文章を三回読んだ。
無事。
それだけで十分だ。今日は。
桐島が隣に来た。
「明日以降、か」
「ああ」
「上層部が何を求めているかによる」桐島が静かに言った。「施設B侵入の説明責任だけなら、まだ交渉の余地がある。でも——」
「上層部が灰島と繋がっていたとしたら、話が変わる」
「そういうことだ」
俺は窓の外を見た。夕暮れだ。空が赤い。
「桐島」
「何だ」
「お前は管理局に追われる立場になるかもしれない。それでもここにいるか」
桐島が少し黙った。
それから言った。
「俺が完全に17側に傾いたのは、お前が決めたことじゃない。俺が決めたことだ」
俺は桐島を見た。
「……そうか」
「そうだ」桐島が珈琲を持って台所に戻った。「それより夕飯を考えろ。瑞樹が何か作るか聞いてくる」
俺は小さく息を吐いた。
こいつも、妙なやつだ。
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夜、部屋に戻った。
白瀬と朝霧がいない拠点は、少し違う空気がした。
静かすぎる、というわけじゃない。ただ——何かが欠けている感じがした。
俺はそれを確かめて、棚に上げた。
柊の実が発現した。白瀬と朝霧は明日以降も管理局にいる。榎本との次の接触を待っている。
動いている。全部、同時に動いている。
俺は目を閉じた。
知らない場所では眠れない。
でもここは——もう、知っている場所だ。




