第69話「前夜」
榎本との約束は夜だった。
昼間は学園に行った。いつも通りだ。授業を受けて、昼休みに桐島と短く話して、放課後に咲の修行を見た。
何も変わらない日常だ。
でも全部、少し遠い感じがした。
咲が菌根菌を展開しながら言った。「師匠、今日なんか変!!!」
「そうか」
「いつもより静か、」
「いつも静かだ」
「もっと静か」咲が手を止めた。「何かあったんですか」
俺は少し考えた。
「今夜、大事な話がある」
咲が俺を見た。心配している目だ。十四歳の目だ。
「……気をつけてください」
「ああ」
咲が頷いて、また菌根菌を展開し始めた。
こいつは余計なことを聞かない。聞いた上で、信じて待つ。
それが——少し、助かった。
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夜、南区に向かった。
廃倉庫の入口を押すと、またランタンの光があった。榎本が座っていた。今日はテーブルの上にファイルが複数積まれていた。
「早いな」榎本が言った。
「管理局が動いた。時間がない」
「聞いた」榎本が俺を見た。「白瀬と朝霧に召喚状が出た」
「知っていたか」
「情報は持っている」榎本が淡々と言った。「それが俺の生き方だ」
俺は椅子に座った。
「今日は何を話す」
榎本がファイルを一つ取り出した。テーブルに置いた。
「施設Aの研究記録の続きだ。前回見せた分より、踏み込んでいる」
俺はファイルを開いた。
データが並んでいる。数値、観察記録、実験の結果。前回より具体的だ。
途中で手が止まった。
ある項目に、見慣れない記述があった。
**「被験体の自発的能力発現——予測を超える出力を記録。灰島研究員、計画の前倒しを検討」**
「被験体」俺は顔を上げた。「これは」
「お前だ」榎本が静かに言った。「施設Aにいた頃の記録だ。お前はまだ幼かった。でも能力の発現が、灰島の予測より早かった」
幼かった頃の記録。
俺には施設Aの記憶がない。物心がついた頃には、別の場所にいた。
「施設Aにいたのはいつまでだ」
「五歳まで」榎本が答えた。「その後、別の施設に移された」
「なぜ」
榎本が少し間を置いた。
「計画が変わったからだ」
「計画」
「灰島は当初、お前を施設Aで完成させるつもりだった。でも——ある出来事が起きて、計画を変更した」
「ある出来事」
榎本がテーブルの上のファイルをもう一つ取り出した。でも開かなかった。
「これを見せる前に、一つ確認したい」
俺は榎本を見た。
「お前の周りに——施設Aを知っている人間がいるか」
俺は少し考えた。
「いる」
「話したか」
「少し」
榎本が頷いた。「瑞樹だな」
俺は答えなかった。
答えなかったが、榎本は続けた。
「瑞樹は施設Aにいた。お前より先に。お前が来る前から、ずっと」榎本の目が少し変わった。「灰島がお前に執着した理由の一つは——瑞樹の研究結果があったからだ」
「瑞樹を研究して、俺を作った」
「そういうことだ」榎本が閉じたままのファイルを見た。「瑞樹の能力は——灰島が求めていたものに、非常に近かった。でも完全ではなかった。だから灰島は次を作ろうとした」
台所が静まり返った。
俺の中で何かが繋がった。
瑞樹が施設Bに閉じ込められていた理由。灰島が瑞樹を手放さなかった理由。
枷、だけじゃなかった。
まだ、使う気だったんだ。
「瑞樹の能力の正体は」
「それは——」榎本が少し目を伏せた。「瑞樹本人から聞け。俺が言うことじゃない」
俺は榎本を見た。
こいつは線引きをする。どこまで話すか、誰が話すべきかを、ちゃんと考えている。
「……わかった」
榎本が閉じていたファイルをゆっくり開いた。
「ある出来事の話をする」
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榎本が話し始めた。
十三年前。施設Aで、一人の研究員が灰島に反旗を翻した。
研究の方向性に反対した。計測不能の能力者を「作る」ことへの異議だった。
その研究員は——瑞樹の傍にいた人間だった。
「今はいない、と瑞樹は言っていた」俺は静かに言った。
「ああ」榎本の声が少し低くなった。「灰島に消された。俺が降りようとしたのも、その直後だ」
「お前はその研究員を知っていたか」
「知っていた」榎本が窓の外を見た。暗い夜だ。「だから降りた。遅すぎたが」
沈黙が落ちた。
俺は聞かなかった。その研究員が誰だったか。榎本との関係が何だったか。
今日は聞かなかった。
でも——いずれ聞く。
「最後に一つだけ」俺は言った。
「何だ」
「灰島は今、どこにいる」
榎本が俺を見た。長い間、見ていた。
「わからない」
「本当に」
「本当に」榎本が静かに言った。「灰島は場所を持たない。どこにでもいて、どこにもいない。それが過去回帰能力を持つ人間の——怖いところだ」
俺は立ち上がった。
「次の接触はいつになる」
「こちらから連絡する」榎本が俺を見上げた。「お前は——整理できているか」
「途中だ」
「そうか」榎本が少し目を細めた。「それでいい」
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拠点に戻ったのは深夜だった。
電気がついていた。
台所に白瀬と朝霧がいた。二人ともまだ起きていた。テーブルに何も置いていない。ただ座っていた。
俺を見て、白瀬が言った。
「おかえり」
「ああ」
椅子を引いて座った。
しばらく誰も話さなかった。
白瀬が先に口を開いた。
「明日、出頭する」
「わかってる」
「桐野さんが迎えに来る。午前十時だ」朝霧が静かに言った。「帰ってこられる保証はない」
「……わかってる」
白瀬が俺を見た。「榎本との話は」
「後で全部話す。今夜じゃなくていい」
「そうか」白瀬が頷いた。「じゃあ今夜は——ただ座っていていいか」
俺は少し考えた。
「ああ」
三人で座っていた。
何も話さなかった。珈琲も出なかった。ただ、同じテーブルを囲んでいた。
それで——十分だった。
白瀬がぽつりと言った。
「お前と出会ってから、退屈しないな」
「迷惑だったか」
「全然」白瀬が笑った。「むしろ感謝してる」
朝霧が小さく頷いた。言葉はなかった。でもそれが答えだった。
俺は何も言えなかった。
言葉が見つからなかったわけじゃない。
ただ——言葉にすると、何か大事なものが零れそうな気がした。
だから黙って、頷いた。
時計が深夜二時を回った。
明日、白瀬と朝霧は管理局に行く。
帰ってこられる保証はない。
でも——今夜は、ここにいる。
それだけを、確かめた。




