第67話「2つの動き」
榎本から返信が来たのは、翌朝だった。
起きてスマホを確認したら、届いていた。送信から十二時間も経っていない。
文面は短かった。
『知っていた。待っていた。三日後、南区の廃倉庫。一人で来い。』
俺はしばらくその文章を見ていた。
待っていた。
こちらから連絡するのを、待っていたということだ。つまり榎本は俺の存在を知っていた。いつから知っていたかはわからない。でも少なくとも、今日が初接触ではない——向こうにとっては。
スマホを置いて、天井を見た。
一人で来い、か。
桐島には話す。白瀬と朝霧には伏せるかどうか、考える必要がある。
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朝食の席で、桐島に見せた。
桐島は文面を読んで、一度置いて、もう一度読んだ。
「待っていた、というのが引っかかる」
「俺もそう思った」
「榎本が17の存在を把握していたとすれば——情報源がある。管理局側か、それとも別のルートか」
「灰島側ではないと思う」
「なぜ」
「灰島に繋がってる人間が俺に接触を許すわけがない」俺は珈琲を飲んだ。「榎本は灰島と敵対している。十三年前に消されて、それでも動いてる。灰島の情報源じゃない」
桐島が少し考えた。「Nullの可能性は」
俺は答えなかった。
否定できなかった。
「……同行は」
「一人で行く」
「それは——」
「一人で来い、と書いてある。複数で行けば信頼を失う。最初の接触で信頼を失ったら、榎本は二度と話さない」
桐島が口を閉じた。
反論はなかった。
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午前中、学園に向かった。
二時間目が終わった休み時間、白瀬から内線が来た。
廊下の端で出た。
「今、話せる?」
白瀬の声が、いつもより低かった。
「何があった」
「桐野さんから連絡が入った。昨夜」
俺は窓の外を見た。曇りだ。
「内容は」
「管理局上層部が、施設B侵入の件で正式な調査を開始した。対象は俺と朝霧。それから——」白瀬が少し間を置いた。「17、お前も含まれてる」
予想していた。でも早い。
「桐野さんは」
「庇える範囲で庇う、と言ってた。でも上層部が直接動いてる。桐野さんの権限でどこまで止められるか」
「朝霧は」
「隣にいる。聞いてる」
朝霧の気配が電話越しにした。
「わかった。放課後に話す」
電話を切った。
廊下を歩く生徒たちが通り過ぎていく。何も知らない顔だ。当たり前だ。
管理局上層部。
施設Bを作ったのは誰か。瑞樹を何年も閉じ込めていたのは誰か。灰島と管理局上層部の関係は何か。
まだ見えていない部分が多すぎる。
榎本が持っている情報が、そこに繋がっているかもしれない。
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昼休み、柊からメッセージが来た。
『棘がざわついてる。また何かある?』
俺は少し考えて、返した。
『少し動いてる。心配するな』
『……それ、前も言ってた』
『今回も同じだ』
既読がついて、しばらく間があった。
『気をつけて』
瑞樹と同じ言葉だった。
俺は返信せずにスマホをしまった。
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放課後、拠点で白瀬・朝霧・桐島と四人でテーブルを囲んだ。
瑞樹は奥津と別室にいる。
「管理局上層部の調査対象に俺たちが入った」俺は言った。「予想より早かった。それだけだ」
「それだけ、って」白瀬が眉を上げた。「結構まずくないか」
「まずい。でも想定内だ」
「想定内ねえ」白瀬が頭を掻いた。「桐野さんが庇えなくなったら、俺と朝霧は管理局に召喚される可能性がある」
「その前に動く」
朝霧が口を開いた。「榎本か」
俺は頷いた。
「三日後に接触する。十三年前の情報を持っている人間だ。管理局上層部と灰島の関係——その根っこに繋がる何かを持っている可能性がある」
白瀬が腕を組んだ。「根っこを掴めば、上層部を動かせる材料になる?」
「なるかもしれない。ならないかもしれない。でも何も知らないまま動くよりはいい」
テーブルに沈黙が落ちた。
桐島が静かに言った。「三日、か。上層部の調査が本格化するまでに、どれくらいある?」
「桐野さんの判断次第だが——一週間は持たせられると思う」白瀬が答えた。「桐野さんはそういう人だ」
「なら間に合う」
朝霧が俺を見た。「榎本との接触、本当に一人で行くのか」
「ああ」
「……わかった」
朝霧はそれ以上言わなかった。心配するより隣にいればいい、という人間だ。いない場合は、信じて待つ。
白瀬が小さく笑った。「俺は心配するけどな」
「してくれなくていい」
「するよ」
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夜、部屋に戻った。
三日後。榎本。南区の廃倉庫。
一人で行く。
何を持っていくか、どう動くか、何を聞くか。頭の中で整理する。
窓の外は暗い。街灯が遠い。
管理局上層部が動いた。榎本が待っていた。灰島はまだ直接現れていない。
でも全部、同じ方向に向いている。
十三年前。研究所。俺が知らない、俺の起源。
それが形を持って、近づいてきている。
俺はスマホを持った。
榎本への返信を打った。
『行く。』
それだけだ。
送信した。
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南区は街灯が少ない。
夜になると人通りがほとんどなくなる区画だ。廃倉庫はその奥にあった。地図で確認した座標通りだ。
俺は一人で来た。
約束通り。
廃倉庫の入口は錠がかかっていなかった。押すと開いた。中は暗い。でも奥に光があった。ランタンだ。
男が座っていた。
四十代。中肉中背。目立たない顔だ。どこにでもいそうで、どこにもいなそうな顔。でも目が違った。疲れていない。長年逃げ続けてきた人間の目じゃない。
ずっと、観察し続けてきた人間の目だ。
「来たな」男が言った。
「榎本か」
「そうだ」榎本が顎をしゃくった。「座れ」
向かいの椅子に座った。古い木製の椅子だ。軋んだ。
榎本はしばらく俺を見ていた。値踏みではない。確かめている。
「思ったより若い」
「思ったより普通の場所を指定した」
榎本が少し笑った。「廃倉庫が普通かどうかはともかく——罠じゃないと思ったから来たんだろ」
「来てから判断した」
「今の判断は」
「罠じゃない」
榎本が足を組んだ。「根拠は」
「罠を張る人間はもっと丁寧にお膳立てをする。お前の連絡は雑だった」
榎本がまた笑った。今度は少し違う笑い方だった。
「合格だ」
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ランタンの光が揺れた。
榎本がポケットから何かを出した。古い写真だ。テーブルに置いた。
「見ろ」
俺は手に取った。
白黒に近い色褪せた写真。建物の外観だ。見覚えがない。でも構造に見覚えがある。
研究所だ。
施設Bとは違う。もっと古い。もっと大きい。
「これは」
「十三年前の施設Aだ。今はもうない。灰島が消した」榎本が俺を見た。「お前が育った場所じゃない。お前が作られた場所だ」
俺は写真を置いた。
「作られた」
「そう言った」榎本が淡々と続けた。「施設Aは能力者の研究施設だ。表向きは管理局の管轄。でも実態は——灰島が私的に運営していた。管理局の予算と設備を使いながら、管理局には報告しない研究をしていた」
「管理局上層部は知っていたか」
「一部は知っていた」榎本の目が少し動いた。「知っていて、黙認していた」
テーブルの上に沈黙が落ちた。
「お前は何をしていた」俺は聞いた。「十三年前」
「施設Aの研究員だった」榎本が答えた。迷わなかった。「灰島の研究に関わっていた。途中まで、は」
「途中まで」
「ある時点で、俺は降りた。降りようとした」榎本が足を組み替えた。「灰島に消された。表向きは死んだことになっている」
「でも生きている」
「しぶとい性格でね」
榎本が立ち上がった。棚に向かって、古いファイルを取り出した。テーブルに置いた。
「見ていい」
俺はファイルを開いた。
研究記録だ。日付は十三年以上前から始まっている。能力者のデータ。数値。観察記録。
途中で手が止まった。
ある項目の見出しに、見覚えのある単語があった。
計測不能。
「これは」
「施設Aで研究していた対象のデータだ」榎本が俺の隣に立った。「計測不能の能力者。灰島が最も執着していた研究対象」
俺はページをめくった。
データが続く。数値。記録。観察。
そして——ある時点からデータが変わった。
対象が、複数になっていた。
「複数いた」
「ああ」榎本が静かに言った。「計測不能は、一人じゃなかった」
俺はファイルから目を上げた。
榎本が俺を見ていた。試している目だ。どこまで受け止められるか、見ている。
「俺も、その中の一人か」
榎本は答えなかった。
答えなかったが——目が、答えていた。
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しばらく沈黙が続いた。
俺はファイルを閉じた。
「灰島の目的は何だ」
榎本が椅子に戻った。「直接聞くんだな」
「遠回りをする時間がない。管理局上層部が動き始めた」
榎本の目が少し変わった。「早いな」
「施設Bを割った。当然だ」
「……そうか」榎本が天井を見た。「灰島の目的」
ランタンの光が揺れた。
「過去回帰能力、知ってるか」
「灰島の能力だ」
「そう。でも——」榎本が俺を見た。「灰島はその能力に限界がある。どれだけ遡れるか。どれだけ正確に介入できるか。一人の人間の能力では、限界がある」
「それを超えようとしている」
「超えるための、器が必要だった」榎本が静かに言った。「計測不能の能力者を研究したのは、そのためだ。過去回帰を補完する、あるいは代替する能力を持つ存在を——」
榎本が止まった。
続きを待った。
「作ろうとしていた」
俺は何も言わなかった。
作ろうとしていた。
育てたんじゃない。作ろうとしていた。
「お前が研究所にいたのは、保護じゃない」榎本が続けた。「研究の継続だ。灰島にとってお前は——完成に最も近い存在だった」
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帰り際、榎本が言った。
「次に会うとき、もっと話す。でも今日はここまでだ」
「なぜ」
「お前が受け止められる量には限界がある。今日渡した分を、まず整理しろ」
俺は榎本を見た。
「過保護だな」
「過保護じゃない」榎本が淡々と言った。「情報は適切な量を適切な順番で渡さないと、判断を誤る。それだけだ」
「……次はいつ会える」
「連絡する」榎本がランタンを消した。「一つだけ聞いていいか」
暗くなった倉庫の中で、榎本の声だけがした。
「お前は——自分が何者か、知りたいか」
俺は少し考えた。
考えてから、答えた。
「知る必要がある」
「知りたいか、と聞いた」
俺はもう一度考えた。
「……ああ」
長い沈黙があった。
榎本が小さく息を吐いた。
「そうか」
それだけだった。
俺は倉庫を出た。
夜の南区は静かだった。街灯が遠い。
作ろうとしていた。
完成に最も近い存在。
胃の底に沈めた。整理は、後でいい。
今は歩く。
それだけだ。




