第66話「日常とそれ以外」
序列決定戦が終わった翌日、学園はいつも通りだった。
いつも通りのはずだった。
朝、昇降口で靴を替えていたら、後ろから声がかかった。
「あの、昨日助けてもらった者なんですけど」
振り返った。見覚えのある顔だった。九条の暴走に巻き込まれそうになった女子グループの一人だ。
「改めてお礼が言いたくて」
「怪我がなければそれでいい」
「あ、は、はい。でもその——」
後ろにもう二人いた。同じグループだ。三人とも顔が赤い。
俺は靴の紐を結んで立ち上がった。
「授業に遅れる」
そのまま昇降口を出た。
後ろでひそひそ声がした。聞こえていた。全部聞こえていた。
聞かなかったことにした。
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一時間目が終わった休み時間、廊下で別の声がかかった。
「四天王おめでとうございます」
知らない顔だった。
「……ああ」
「あの、昨日の試合、すごくて。ERRORって最初聞いたとき、正直なめてました。ごめんなさい」
「別にいい」
次の声がかかる前に歩き出した。
昼休みに桐島が職員室から出てきて、俺の顔を見て小さく笑った。
「災難だな」
「うるさい」
桐島が笑いを収めた。「まあ、悪いことじゃない。目立つのは面倒だが、信頼を得るのは悪くない」
「学園内の信頼なんて今は要らない」
「今は、な」桐島が静かに言った。「でもいずれ要る場面が来るかもしれない」
俺は何も言わなかった。
桐島はそれ以上追わなかった。
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放課後、咲が待っていた。
校舎裏の、いつも修行をしている場所だ。
「師匠」
「昨日の試合は見た」
咲が少し目を伏せた。「負けました」
「わかってる」
「悔しかったです」
「それでいい」
咲が顔を上げた。
「左の展開、できてました?」
「できてた」
咲の表情が少し緩んだ。でもすぐに引き締まった。
「でも柊先輩に網の綻びを見つけられました。感知網を攻撃に切り替えるとき、一瞬隙間ができた」
「気づいてたか」
「負けてから気づきました」咲が地面を見た。「次は、そこを塞ぎたいです」
俺は少し考えた。
「切り替えに隙間ができるのは、意識が一点に向いてるからだ。感知と攻撃を別のものだと思ってる」
「……同じ、ということですか」
「菌根菌はずっと繋がってる。感知も攻撃も、同じ網の使い方だ。切り替えるんじゃなく、そのまま圧をかける」
咲がしばらく黙っていた。
それから地面に手をついた。菌根菌が走った。
ゆっくりと、でも途切れずに、展開したまま密度が上がっていった。
切り替えていない。
続けたまま、変えている。
「……あ」咲が小さく声を出した。
「わかったか」
「わかった、気がします」
「気がするだけじゃ足りない」
「はい」咲が立ち上がった。目が変わっていた。「もう一回やります」
俺は頷いた。
こいつは強くなる。まだ途中だ。でも確実に、途中だ。
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夜、拠点に戻った。
白瀬と朝霧は外出中だった。桐島は書類を広げていた。
台所に瑞樹がいた。湯を沸かしていた。
「座る?」
また同じ聞き方だった。
「少しだけ」
向かいに座った。瑞樹が湯呑みを二つ置いた。お茶だ。
しばらく沈黙が続いた。
瑞樹が先に口を開いた。
「学園、どうだった」
「大会があった」
「そう」瑞樹が湯呑みを両手で包んだ。「怪我は」
「ない」
「そう」
また沈黙。でも重くない。
俺は湯呑みを持った。
「榎本に連絡を取る」
瑞樹の手が、少し止まった。
「……知ってる名前だ」
「会ったことがあるか」
「ない。でも灰島が——」瑞樹が少し目を伏せた。「何度か、名前を出してた。消した、と言っていた」
「消しきれていなかった」
「そうみたいね」瑞樹が窓の外を見た。夜の景色だ。街灯が遠い。「あいつが消しきれなかった人間が、今も動いてる」
「ああ」
「……怖い人なの? 榎本って」
俺は少し考えた。
「わからない。まだ会ったことがない」
「そう」瑞樹が湯呑みを置いた。「気をつけて」
命令でも、懇願でもなかった。
ただ、言った。
俺は頷いた。
「瑞樹」
「何」
「灰島のことで、話せることがあれば——急がなくていい。でもいずれ聞く」
瑞樹はしばらく黙っていた。
窓の外を見たまま、静かに言った。
「……わかった」
それだけだった。
でも十分だった。
お茶が冷めるまで、二人とも何も言わなかった。
それで——よかった。
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寝る前に、榎本への連絡文を作った。
短い文章だ。名前と、一行だけ。
——十三年前のことを知りたい。
送信した。
返信がいつ来るかはわからない。来ないかもしれない。
でも動き始めた。
今、始まる。




