第104話「小さき頃の記憶、存在の証明」
最初の記憶は、教室だった。
小学校だ。
窓から光が入っていた。
先生が出席を取っていた。
名前を呼ばれた。
返事をした。
先生が——首を傾けた。
「……誰かいますか」
先生がもう一度名前を呼んだ。
俺は手を挙げた。
「ここにいます」
先生が俺の方向を見た。
でも——俺を見ていなかった。
俺の向こうを見ていた。
「……いないのかな」先生が言った。「次の子」
俺は——手を下ろした。
見えていなかった。
先生には、俺が見えていなかった。
能力のせいだ。
存在が曖昧。
生まれた頃から、そうだった。
誰にも——見えにくかった。
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いじめが始まったのは、いつからか。
正確には覚えていない。
いつの間にか——始まっていた。
最初は無視だった。
でも無視、というより——見えていないのだ。
見えないから、ぶつかる。
見えないから、話しかけない。
見えないから、名前を呼ばない。
それが——いつの間にか、意図的になった。
見えているのに、見えないふりをする子が出てきた。
能力者なら、見える。
能力者でも、見えないふりをした。
俺が存在することを——なかったことにした。
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強くなろうとした。
能力を鍛えた。
でも——存在が曖昧になる能力は、攻撃に向いていない。
強くなれなかった。
弱かった。
何度も倒された。
何度も地面に転がされた。
立ち上がるたびに、また倒された。
泣いた。
でも泣いても——誰にも見えなかった。
泣いている姿も、見えなかった。
だから——誰も来なかった。
誰も、来なかった。
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悲しかった。
ずっと悲しかった。
でも——悲しみは、いつか変わる。
悲しみが積み重なると——怒りになる。
怒りが積み重なると——恨みになる。
俺の中で、悲しみが怒りになった日がある。
正確には覚えていない。
でも——ある日、気づいた。
泣いていない。
悲しくない。
ただ——怒っていた。
全部に。
見えないふりをした子どもたちに。
見えていないままだった先生に。
存在を認めなかった世界に。
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怒りが恨みになったのは——もう少し後だ。
管理局に呼ばれた日だ。
能力者の登録のためだった。
管理局の施設に行った。
計測を受けた。
担当者が——俺を見た。
でも。
「……計測不能です」担当者が言った。「存在の定義が曖昧で、計測できません」
「登録は」
「できません」担当者が俺を見た。——いや、見ていなかった。俺の方向を向いていただけだ。「存在が確認できない能力者は、登録できません」
「ここにいる」
「……ルールですので」
登録できなかった。
存在を、認められなかった。
管理局に——存在を否定された。
その日、俺の中で何かが——固まった。
怒りが、恨みになった。
世界が俺を認めないなら——俺が世界を支配する。
そうすれば——誰も、俺を無視できない。
誰も、俺の存在を否定できない。
それだけだ。
それだけが——全てになった。
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灰島と出会ったのは、その後だ。
灰島は俺を見た。
ちゃんと、見た。
「君は——面白い能力を持っているな」灰島が言った。
俺は少し止まった。
久しぶりだった。
ちゃんと見られたのが。
でも——俺はすでに恨みの中にいた。
灰島を利用しようと思った。
灰島の研究を利用して、世界を支配する。
それだけを、考えた。
感謝はしなかった。
できなかった。
恨みが——全部を覆っていたから。
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でも。
今になって——思う。
灰島は俺を見た。
最初にちゃんと見た、数少ない人間の一人だった。
それを——利用することしか考えなかった。
後悔しているか。
していない。
でも——思う。
あの頃の俺が、少し違っていたら。
悲しみが怒りになる前に、誰かが来ていたら。
怒りが恨みになる前に、誰かが見ていたら。
世界が違っていたかもしれない。
でも——そうはならなかった。
だから——ここにいる。
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一つだけ。
一つだけ、覚えている。
小学校の頃。
まだ悲しみしかなかった頃。
窓から外を見ていた。
グラウンドで子どもたちが笑っていた。
誰かと話していた。
笑い合っていた。
俺も——ああなりたかった。
ただそれだけだった。
ただ——誰かと笑いたかった。
それだけだった。
それが——全部の始まりだった。
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学園長が——一瞬だけ、目が変わった。
穏やかな笑顔が、一瞬だけ——消えた。
代わりに出てきたのは。
子どもの顔だった。
窓の外を見ていた子どもの顔だ。
笑いたかった子どもの顔だ。
でも——一瞬だけだった。
穏やかな笑顔が、戻った。
学園長が俺を見た。
「……少し、遠くにいましたね」学園長が静かに言った。
「ああ」俺は言った。
「わかりましたか。私のことが」
「少しだけ」
「そうですか」学園長が静かに言った。「では——戦いやすくなりましたか」
「戦いやすくはならない」
「なぜ」
「お前の事情がわかっても——お前のやろうとしていることは、間違っている」俺は言った。「世界を支配しても、誰かと笑えるわけじゃない」
学園長が——止まった。
穏やかな笑顔が、少しだけ——揺れた。
「……何を」
「お前がずっと欲しかったものは、それじゃないだろう」
長い沈黙が落ちた。
学園長が俺を見た。
目が——少し、違った。
でも。
「……関係ないことです」学園長が静かに言った。「昔のことは、昔のことです。今の私には——世界を支配することだけがある」
「そうか」
「ええ」学園長が穏やかに笑った。「あなたに言われても——変わりません。変わる気もない。変わる必要もない」
「わかった」
「続けましょう」
「ああ」
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白瀬が俺の隣に来た。
小声で言った。
「今の——学園長の顔」
「見たか」
「見た」白瀬が静かに言った。「一瞬だけ、子どもみたいな顔をした」
「ああ」
「……かわいそうだとは思う」白瀬が言った。「でも——」
「でも、だな」
「ああ」白瀬が頷いた。「でも、だ」
朝霧が静かに言った。「同情と、戦うことは別だ」
「そうだな」俺は言った。
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咲が俺を見た。
「師匠」咲が静かに言った。珍しく、勢いがなかった。「学園長は——ただ、誰かに見てほしかっただけなんですか」
「そうかもしれない」
「……でも、やったことは」
「やったことは変わらない」
咲が少し俯いた。
「……はい」咲が顔を上げた。「わかりました」
柊が静かに言った。
「棘で見ると——学園長の綻びが、少し見えた気がした」
俺は柊を見た。
「今まで見えなかったのに」
「ああ」柊が静かに言った。「一瞬だけ——子どもの顔になったとき。その一瞬だけ、綻びが見えた」
俺は学園長を見た。
「使えるか」
「……わからない。でも——やってみる」柊が根と実を展開した。「次に綻びが見えたとき、実を入れる」
「ああ」
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学園長が構えた。
霧が広がり始めた。
「続けましょう」学園長が穏やかに言った。
「ああ」俺は答えた。
手の中に、温かいものがあった。
灰島が残してくれたものだ。
まだ、温かかった。
俺は踏み込んだ。




