第102話「これが、最期の回帰だな」
覚えているのは、光だった。
研究室の窓から差し込む、午後の光だ。
颯太が笑っていた。
まだ小さかった頃だ。五歳か、六歳か。
窓の前に立って、光の中で笑っていた。
あの頃、颯太の能力はまだ発現していなかった。
ただの子どもだった。
よく笑う子どもだった。
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颯太が能力を発現したのは、十歳のときだった。
計測不能だった。
管理局の機器が全て——ERRORを示した。
灰島は、その数字を見て——震えた。
喜びじゃない。
恐怖だ。
計測不能の能力は、制御が難しい。
灰島は研究者だった。
それが何を意味するか、誰より知っていた。
颯太に告げなかった。
心配させたくなかった。
自分が何とかする、と思っていた。
間に合わなかった。
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十五歳の夏だった。
颯太の能力が暴走した。
灰島は研究室にいた。
連絡を受けて走った。
間に合わなかった。
颯太が——倒れていた。
笑っていなかった。
目が閉じていた。
灰島は颯太の手を握った。
冷たかった。
何も言えなかった。
何も、言えなかった。
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過去回帰能力を本格的に使い始めたのは、その翌年からだ。
戻ろうとした。
あの夏に。
颯太が倒れる前に。
でも——届かなかった。
三十年前は、俺の能力の限界をはるかに超えていた。
届かなかった。
届かなかった。
何度戻ろうとしても、届かなかった。
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水瀬に出会ったのは、施設Aを作ってから三年後だった。
研究員として来た。
若かった。
目が真っ直ぐだった。
灰島の研究を見て——止めようとした。
「これは間違っています」水瀬が言った。「人を道具として扱っている。それは間違っています」
「颯太に届くためだ」灰島は答えた。
「届いた後、どうするつもりですか」
「颯太を助ける」
「助けた後は」
灰島は答えられなかった。
颯太を助けた後のことを、考えていなかった。
三十年間、颯太に届くことだけを考えていた。
その先を、考えていなかった。
「……考えていなかった」水瀬が静かに言った。「灰島さん、あなたは——息子さんを愛しているんじゃない。息子さんを失った痛みに、囚われているんです」
灰島は水瀬を見た。
正しかった。
水瀬は正しかった。
でも——止まれなかった。
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水瀬が消えた後、灰島は長い間——何も感じなかった。
感じる余裕がなかった。
研究を続けた。
瑞樹を閉じ込めた。
17を作った。
全部、颯太のためだと思っていた。
でも——本当にそうだったか。
今となっては、わからない。
颯太のためだったのか。
それとも——止まれなかっただけだったのか。
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学園長に利用されていることに、気づいたのは——ずいぶん後だった。
気づいた頃には、もう遅かった。
でも——止まれなかった。
止まり方を、忘れていた。
三十年間、前だけを向いていた。
立ち止まり方を——忘れていた。
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17を見たとき、灰島は少し——驚いた。
設計通りに育っていた。
いや、設計を超えていた。
でも——それより。
仲間がいた。
隣に立つ人間がいた。
颯太にも、いた。
友人がいた。よく笑っていた。
俺には——いなかった。
水瀬が消えてから、誰もいなかった。
17を見て——俺が失ったものが、初めてはっきり見えた気がした。
颯太じゃない。
隣に立つ人間だ。
俺が失ったのは——颯太だけじゃなかった。
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今、地面に倒れている。
空が見えた。
青い空だ。
颯太が笑っていた頃の空に似ていた。
後悔している。
全部、後悔している。
でも——17が来る。
気配がわかった。
17が来る。
それだけが——今の灰島に残っていた。
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俺は、灰島の前に膝をついた。
灰島が目を開けた。
「……来たか」
「ああ」
後ろで戦闘の音がしていた。
白瀬が叫んだ。咲が菌根菌を展開する音がした。柊が根を維持していた。
全員が——戦っていた。
俺のために。
「聞こえるか」俺は言った。
「聞こえる」灰島が静かに言った。「みんなが戦っている音だ」
「ああ」
「……お前のために、戦っている」
「ああ」
灰島がしばらく空を見た。
「颯太にも——友人がいた。よく笑う友人が」灰島が静かに言った。「俺にはいなかった。水瀬が消えてから、ずっと一人だった」
「水瀬のことは——聞いた」
「そうか」灰島が俺を見た。「水瀬は正しかった。俺は間違っていた。でも——水瀬の言葉を、聞けなかった」
「……後悔しているか」
「している」灰島が静かに言った。「でも後悔しても——颯太は戻らない。水瀬も戻らない。お前に謝っても、消えた時間は戻らない」
「そうだな」
「……お前は」灰島が俺を見た。「俺を恨んでいるか」
俺はしばらく考えた。
「恨んでいる部分は——ある」俺は答えた。「でも」
「でも?」
「颯太に届けばよかった、とは思う」
灰島が——目を閉じた。
長い沈黙が落ちた。
それから——目を開けた。
「……ありがとう」灰島が静かに言った。
俺は答えなかった。
答えなかったが——頷いた。
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灰島が手を伸ばした。
「能力を渡す」灰島が言った。「お前にはFormula系がある。受け取れる」
「ああ」
「過去回帰能力で——学園長の存在を全ての時間軸で定義できる。そうすれば式系が完全に通じる」
「わかった」
灰島の手が——俺の手に向かった。
その瞬間。
霧が来た。
学園長だ。
全員が必死に足止めしていた。
でも——学園長が、ここまで来た。
「邪魔をします」学園長が穏やかに言った。「灰島さん。何度も言いますが——用済みです」
「学園長」灰島が静かに言った。
「何ですか」
「お前は——何のために、世界を支配しようとした」
学園長が少し止まった。
「関係ないでしょう」
「関係ある」灰島が学園長を見た。「お前も——何かを失ったんじゃないか」
学園長が——少し、黙った。
穏やかな笑顔が、一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬だけ。
「……関係ないことです」学園長が静かに言った。「失ったものは、取り戻しません。作り直します。世界ごと」
「作り直しても——同じじゃない」
「同じじゃなくていい」学園長が穏やかに言った。「私が支配する世界なら——誰も、私を無視できない」
灰島が少し目を閉じた。
「……そうか」
「ええ」学園長が手を伸ばした。「では——」
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俺は動いた。
学園長と灰島の間に入ろうとした。
体が動かなかった。
限界だった。
でも——動こうとした。
学園長が俺を見た。
「17君」学園長が穏やかに言った。「邪魔をしないでください」
「どけ」
「嫌ですよ」
学園長の手が——灰島に向かった。
「灰島さん。本当にお疲れ様でした」
灰島が——俺を見た。
目が、真っ直ぐ俺を見ていた。
口が動いた。
声は出なかった。
でも——わかった。
二文字だ。
俺の、名前だ。
学園長の能力が——灰島に展開された。
存在が、曖昧になっていった。
灰島の輪郭が——霧に溶けていった。
「灰島!!」
俺は手を伸ばした。
届かなかった。
でも。
灰島の手が——俺の手に触れた。
最後の一瞬だけ。
触れた。
何かが——流れ込んできた。
温かかった。
重かった。
三十年分の、何かが。
灰島の輪郭が——消えた。
霧の中に、溶けていった。
静かに。
音もなく。
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灰島が——いなくなった。
俺は手を見た。
何も残っていなかった。
でも——手の中に、何かがあった。
形がない。
でも確かに、ある。
過去回帰能力だ。
灰島が——渡してくれた。
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俺は学園長を見た。
学園長が俺を見ていた。
穏やかな笑顔だ。
「受け取りましたか」学園長が静かに言った。「でも——今のあなたに、使えますか」
俺は答えなかった。
手を握った。
灰島から受け取ったものを、確かめた。
温かかった。
まだ、温かかった。
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後ろから白瀬が来た。
朝霧が来た。
全員が来た。
白瀬が俺の隣に立った。
灰島がいた場所を見た。
「……灰島は」白瀬が静かに言った。
「死んだ」俺は言った。
白瀬が黙った。
全員が黙った。
風が吹いた。
灰島がいた場所には——何も残っていなかった。
でも。
俺の手の中に——灰島が残した何かが、あった。
温かいまま、あった。
「……行くぞ」俺は言った。
全員が頷いた。




