その139 「あなた」と「君」が隔てる理由
「ただいま~。」
「おかえりなさい。今日もご苦労さま。」
「頑張ってる甲斐がある。あれ、あの娘は今日、バイトだっけ?」
「そうだよ。なんか用事?」
「あ、え~と、ちょっと二人に話してみたいことがあって。その...」
「いつもの時間に聞くよ。僕だけじゃなくて、あの娘にも聞かせたいことって、すごく重要なことでしょ?」
「......ごめんなさい。うん、二人に聞いてほしいこと。二人がどう思うかを知りたい。」
自分と同じ年齢であることに戸惑う自分がいる。目の前にいたのは、いつもの凛々しい妻ではなく、不安を口にするあの頃の同級生だった。
何かがおかしいと思った。僕の直感など当たるわけでもないけど、その違和感が、少しだけ気になっていた。
「一度、離婚しようと思ってるの。」
不思議と、辻褄があった気がした。予感させる出来事はなかったけど、彼女なりに出した答えの一つなのだろう。
「おねえちゃん、それって、私達に愛想が尽きたってこと?」
「それは、二人が私に感じてることなのかなって思ってる。だけど、離れるのはちょっと無理かなって。」
「なら、別にいいじゃん。バツイチになっちゃうんだよ?」
「うん...、そうなのよね。」
理由があるんだな。表情は取り繕っているけど、ひた隠しにしている気持ちがあると僕には思えた。
「あなたが言うには、何かしら理由があるんでしょ?それも隠したい理由。」
「バレてたのね。うん、正直に言う。私、少し家族の大黒柱でいることに疲れちゃったの。」
「うん。」
「私が頑張って働いて、二人と一緒に暮らしてて、こんなに充実してるのに、そんな充実感に疲れてる自分に嫌気が差したの。」
「......頑張りすぎてた?」
「無理しすぎたのかも。幸い、あなたみたいに壊れる予兆を感じ取れたから、自然とそう思えた。私には、妻も、母親役も、荷が重いのかなって。」
「おねえちゃん...。」
「心配しなくていいわよ。私は、責任から逃げたいだけだって気づいてる。会社でそれをやることになったら、会社に大きな損害をもたらす。でも、一度、妻と母親って看板を下ろすだけで、二人を好きな気持ちは変わらない。」
「うん、僕はいいと思う。でも、一つ気になることがあるんだ。」
「それを教えてほしかったの。あなたの気持ち、教えて欲しい。」
「僕が考える中で、影響があるかなって思ったのは、まず会社での立場かな。あなたが僕と離婚したという話自体はそれほどおかしな話ではないと思う。ごく一般的な痴情のもつれだと考えていい。でも、僕もこういう考え方は好きじゃないけど、少なからずあなたの後輩と僕には接点がある。あなたと後輩の関係は問題ないのかなって思ったんだ。当然だけど、あなたの後輩はきっとあなたを避ける。真実を知っていても、同調圧力には勝てないだろう。人事部長が離婚したという情報は、少なくとも人事部内では黙っていてもシステムとして漏れる。隠していてもダメだし、大っぴらにも出来ない。」
「うん、そうよね...。」
「もう一つは、この娘が合法的に僕と結婚出来てしまう点。前からあなたは容認していたことだと思うけど、この娘がそれを望めば、今度はあなたが愛人の立場、不倫関係になる。その重圧は、本妻以上にあなたを苦しめるんじゃないかって。この娘にも影響が出ると思う。この娘の親友だった後輩さんと、この娘の関係も壊してしまう可能性がある。」
「......おねえちゃんが愛人...不倫...。私が、オトーサンを寝取ったってことになる?」
僕は、妻が落ち着いているように見せて、実は内心で怯えていることが分かった。でも、きっとこの人は、僕がすべてを話すことをどこかで望んでいると思った。彼女を信じて、僕は言葉を振り絞った。
「極端な話、二人の立場が逆転することはないし、三人で暮らすことも別に問題ない。もちろん、この娘の両親として接していくことも出来る。僕はそれでもいい。でも、この娘はそれでいいのかな?」
「私はそんなおねえちゃんを見たくない。私も気持ちの上で整理が付いてるほど大人じゃないけど、私も二人が大好きだから、おねえちゃんとオトーサンの関係が好き。仲良くしてる二人が好き。」
「うん......。」
「最後に、僕からのお願い。僕が、あなたと一生を添い遂げたいって気持ちはどこへ逃がしたらいいの?日本の法律が決めた婚姻関係だけど、僕にはそれがあなたへの一生の誓いだと思ってる。その法的な関係が、僕には思った以上に必要だったと籍を入れてから感じてる。一緒に年老いていくことが出来ないことを悔やみながらいつまでも理想の女性のままでいるあなたと二人で、この娘の成長を見守っていく...。その気持ちはどうしたらいいの?」
「ごめんなさい......。今の私、あなたのその気持ちすら、理解出来ていなかった。でも、重圧に感じてるのも本当なの。」
知ってる。完璧主義の妻にとって、自らを100%愛してもらえていると感じていても、どこかで気持ちが追いついていない。刹那的な快楽に身を投じ続けているのも、その反動なんだと思ってる。彼女は、僕にもこの娘にも、100%愛せる自信が欠けていると思い込んでしまっている。思った以上にメンタルがすり減っているんだろう。そして、僕の存在が、妻を苦しめている。
「...あのさ、おねえちゃんとオトーサンが離婚するって話は少しずらして、オトーサンがおねえちゃんの呼び方を変えるだけで、実は解決したりしないかな?」
「ん...?どういうこと?」
「ほら、私はオトーサンに「君」って呼ばれてる。おねえちゃんは「先輩」と呼ばれ続けることより「あなた」って呼ばれることに疲れてるんじゃないかなって。」
言われてみれば、だった。僕も前はそう呼んでいた。どこか今の「あなた」にしっくり来てしまって、「君」と呼ぶことがなくなっていた気がする。妻は、どこかで今でも恋人であると自覚してるから「あなた」と僕が呼ぶときに立場の違和感を感じていた。この娘が「君」と呼ばれている日常を羨ましかったのかもしれない。まったく、娘なのにすごいよ。本当に僕より僕を知っている。
「......呼んで欲しい。私も、「君」って呼んで欲しい。」
「それで「君」の気持ちは治まるの?妻のまま、母親のまま、重圧はかかったままだよ?」
「......見苦しいような気がするけど、私は「君」と恋人でいたいまま、どこかで妻と母親を演じることに無理をしてたのかもしれない。二人の親子とも恋人とも取れるやり取りに嫉妬してたのかもしれない。だから、恋人に見てほしくて、離婚なんて口にしちゃった。すごく情けないね。」
「おねえちゃんの気持ちに整理がつくなら、私はそれでもいいと思う。でもね、そうなると、私達、いよいよどっちが呼ばれてるのか分からなくなっちゃうよね。」
「う~ん、二人とも名前が一緒だしね。同じ人間だから仕方ないにしても、名前で呼ぶと、これはこれで分からなくなる。」
僕と娘が呼び方に解決策を見出す様子を見て、少しだけ表情の和らいだ妻がいた。
「ねぇ、ワガママ、聞いてくれる?」
「うん、叶えられるワガママなら。」
「そうしたら、私と二人の時は、あなたは「君」って呼んでくれればいい。母親役だけど、この娘は私なんだし、私は「おねえちゃん」だから、ずっと母親でいる必要もなかったのよね。そもそもに、母親ではなかったのよ。」
「あ、おねえちゃんって、そういうところを気にする人だったんだ。意外だった。」
「アンタみたいに、この人とベタベタしてても許してるのは、自分だったからって思い続けてた。でも、どこかで忘れてた。私はここのところ、立場に捕らわれすぎてたのね。ずっと、良い母親でいようと思ってた。自分が自分に嫉妬してるって、言われるまで忘れてた。あまりに出来の良すぎる「私」を目の前にして、私は身体だけでも愛してもらおうと必死だったのかもしれない。」
「私はそんなに出来がいいわけじゃないよ。おねえちゃんがそばにいて、色々気にかけてくれたからだよ。おねえちゃんあっての私。私は、私がいないと、私になれないんだ。」
「アンタには、私がお見通し...。私だし、それはそうよね。ごめんなさい。私も少し甘えすぎたかも。」
「甘えるだけで済むうちはいいと思う。その...なんというか、やっぱり「君」は、僕の理想の女性だから。こういう時だけでも甘えて欲しいよ。」
「そうだよ。甘えてて、恥ずかしいことなんてないよ。おねえちゃんも、私に甘えていいよ。」
「......今日、もう1本。」
「それはダメ。それは甘えじゃなくて、たるみだね。」
「...呼び方、呼ばれ方で人の気持ちは少しだけ変わる...か。相変わらず、君には教えられることが多いよ。」
「私のことでいいんだよね?私は、そういうもどかしい思いをずっとしてたからかな。オトーサンって呼ぶ時と、君って呼ぶ時、私の立場は変わる。おねえちゃんにはそれがなかっただけ。」
「そっか。私はどんなときでも、妻でいようとしてたのかもね。恋人に見て欲しかったのに、「あなた」って呼ばれることが、私の気持ちの中で迷子になってたのかもね。」
「...あの、今はあなたって呼んでいいんだよね?」
「はい、私の「あなた」。」
白々しくもある妻の可愛い笑顔。この人はどこまで理想でいてくれれば気が済むのか。
「ごめんなさい、二人を不安にさせちゃったわね。」
「いいんだ。気づけなかった僕も悪いし、その......やっぱり、他人行儀だった?」
「あ、エッチの時?...うん、夫婦の営みって言うけど、私はまだ恋人との付き合いみたいなのかも。あなたが「君」って呼んでくれるだけで、もう少し盛り上がれるし、私は満たされるかも。」
「...今日はしないよ?」
「当たり前じゃないの。でも、明日はどうなるかしら?」
「あのさ、一応娘なんで、予告しないで欲しいんだけど。」
「アンタが帰る前に終わらせておくわよ。それか、真っ只中に帰ってきて、アンタに嫉妬させてあげようか?」
「...はぁ~。こういう人だったよね。私なのになぁ。」
「私の年齢になったら分かるわよ。でも、アンタも私を嫉妬させるぐらい、いつも楽しそうにしているじゃないの。」
「そりゃあ、私は彼の理想の恋人だもん。理想の女性とは一味違うんだよ。」
「ふふふっ、私達にしか分からない関係だね。」
「楽しいよ。おねえちゃんも、翻弄される君もね。」
「......僕はもう寝ます。二人で楽しく話しててください。」
「冗談よ、私も寝る。アンタはどうする?」
「私はまだお風呂に...あ、オトーサンに髪の毛乾かしてもらえないね。」
「入ってきなよ。二人で待ってる。その後、三人で寝よう。」
「うん、少し待っててね。」
娘がお風呂に入ったあと、妻は満足そうに僕の隣によってきた。
「どうかしてた。私、本気で離婚を考えちゃったけど、その影響まで考えようとしなかった。」
「僕は君の心まで分かるわけじゃないし、何より君が背負っているものが重いことを知ってて、情けないとも思う。僕が背負うべきものだと感じながら、自分の好きにしか生きられない。ずるいよね。」
「本当にずるい人よ。でも、今は「君」って呼んでくれる。私は君の恋人に戻れる。こんなに簡単なことで解決出来たのに、私は色々思い詰めすぎちゃった。」
「どうしてそう思ったのか、僕はなんとなく分かる。この前、君の後輩が二人来た時、二人とも面接官としての立場だとどうしていいか分からないって言ってた。君も同じ。少なからず他者の人生に影響力があることに、怖さを感じたんだよね。その責任を一身に背負おうと部長として振る舞ったから、僕らへの気持ちが弱くなったと感じたんだよね。」
「うん、私が人生を左右するって立場になるとは思ってなかった。覚悟を持ってたはずなのに、後輩たちの手前、強がらなきゃいけないと思ってた。」
「素直に言えばいいんだよ。そうじゃなくても、百戦錬磨の部長補佐さんがいるんだろ?彼も、君の後輩も、君をフォローしてくれる。自分だけ背負う気になったら、僕のように壊れる。壊れる前に気づけなくてごめん。そして、自分から気づけて良かった。」
「......私が壊れた時、君は私に寄り添える?」
「何を今更。君のことが好きなんだから、僕はずっと寄り添うつもり。健やかなるときも、病めるときもってね。」
「結婚式の誓いみたい。そっか、私達、結婚式もしてないし、指輪もしてないものね。」
「ま、全てはあの娘次第。僕らが本当に夫婦になった時、二人っきりでやろうか。」
「でも、指輪は?」
「給料3ヶ月分か...。ちょっと無理かな。」
「知ってる。指輪だけが証じゃないし、そのときになったら、二人で考えよう。」
妻に気づかなかった僕は、本当に彼女の夫でいるべきなのだろうか。僕は理想の女性とおだてて、彼女にプレッシャーを与えていたのではないのか?
「気にしなくていいわよ。」
「えっ、どうして?」
「ポーカーフェイスのくせに、悩むときには難しい顔をする。不思議よね。」
「そうなんだ。僕、知らなかった。」
「表情が読み取りづらいのは確かよ。でも、今は空気で分かる。あなた...うん、あなたでいい。私に憧れを抱かせた時も、そんな顔をしてた。」
「中学の文化祭の話?」
「そう、あの娘のほうが思い出に残っていないのも不思議なのよね。私は、あの頃の作業で、あなたが必死になっている場面を何度も見てる。その時の雰囲気の時、今の顔をしてたのよ。」
「怖い顔だよね。」
「そして、私が隣に立ちたいと思った顔。案外、一番好きな君の顔は、真剣に悩む難しい顔なのよ。」
「そうなんだ。気づかなかった。」
「あ、そうか、私が君に告白してきた時、今の私と同じだったんだ。」
「追い詰められたがゆえの告白だっけ?僕は、あのタイミングでしか告白が出来ないと思っただけだけど...。僕も追い詰められてたってことか。しかし、今回ばかりは、冷や汗をかいたし、あの娘が本当に頼もしく感じた。」
「子は育つか...。もうちょっと、行く末を見つめてあげたいね。その行く末でも、私達が助けて、あの娘も私達を助けてくれる。共依存してるのに、離婚を思っちゃうなんて、やっぱり追い詰められてたのよね。」
「...大したおもてなしは出来ないけど、家飲みでもしたらいいよ。あ、その場合、いよいよ布団を買おう。」
「そうね。あなたの布団だと...、私のシミも付いてるのよねぇ。」
「ふとんクリーニングもしないとダメだなぁ。ま、布団は買おう。さすがに、深夜にチェックイン出来るホテルが近くにあるとはいえ、ホテル代を捻出するのは厳しいよ。」
「私が買うわよ。私の可愛い後輩と、あの娘のためだもん。それぐらいするわ。」
ドタドタと足音が聞こえてきた。娘の髪の毛を乾かして、三人で寝る。今の妻は、トレーニングよりも、情欲に任せたエッチよりも、三人で寝ることよりも、僕からの呼ばれ方に飢えていた。そんなことに気付かされた。
つづく




