1.おそろしい訪問者たち
夕暮れ前のこと、そろそろ帰宅しようかと袁仁威が自身に与えられた隊長室にて片付けなどをしていた矢先、閉められた戸の向こうにぴりっとした気配を感じて一切の動きを止めた。
瞬時に筋肉を緊張させる。
息を細く吐きながら気をもって外の様子を探る。
この隊長室は、まさに八年前の事変において当時の枢密副使・楊玄徳が監禁された場所である。また、当時新人武官であった仁威がその見張り役を抵抗一つせず実行した、愚かしい思い出が刻まれた場所でもある。
仁威はこの室内にいると心休まることがない。だがそれでいいと常々思っている。少なくともこの宮城にいる間は、いついかなる時でも己が武官であることを忘れてはならない。たとえば、そう――こんなふうに予想だにしない闘気を察知してもすぐに動くことができるように。
だが、それはすぐに中断した。
仁威が気を解いた次の瞬間、戸は予告なく豪快に開けられた。
そこにいたのは仁威が予想したとおりの人物、近衛軍将軍・郭駿来であった。
開けた時以上の腕力で力任せに戸を閉め、駿来はいかつい顔に笑みを浮かべた。そしてその貫禄のある体を仁威にぐいっと近づけてきた。さらには、礼儀正しく直立不動して待ち受けている部下に対し、突如その人差し指で額をぱちんと打った。ここまであっという間の早業であった。
ぱちん、と表現すると大したことはなさそうだが、この武官の代表のごとき体格を有する将軍による手技であるから、実際には相当痛い。はじかれた仁威の額がたちどころにその部分だけ朱色に染まったのがその力強さを証明している。
だが仁威は微動だにせず、息すら洩らさなかった。今も表情を変えることなく至近距離にあるこの上司が口を開くのを待っている。そんな仁威を駿来はたまに思いきりからかってやりたくなる。それをすればこの部下はどういった反応を見せるだろうか……と。
とはいえこの男の前では人間である前に上司でなくてはならないし、今のような状態の仁威にはもっと別の接し方が必要なことくらいは分かっている。だからまずはこれまでの仕事に対する称賛から伝えることにした。
「任務ご苦労だったな。楊枢密使から大儀であったとのお言葉を頂いている」
「はっ。ありがたき幸せ」
その定型的な返答に、駿来はその太く空に突き出るような眉を分かりやすく下げた。
「……なんか、さらにおかしなことになってねえか?」
「……は?」
いぶかしがる仁威の額がまたもぱちんと打たれた。当然打たれた場所は寸分違わず先ほどと同じ場所である。薄くなりかけていた朱色が濃く鮮やかに変化した。
頭蓋骨にまで響くじんじんとした痛みに、仁威はやや眉をひそめた。そこへきて駿来が眉を下げたままさらに顔を近づけてくるので、仁威はつい顔をそむけた。
「……うーん?」
生暖かい息が頬にかかる。
「何でしょうか」
言った傍から、今度は脳天に拳骨をくらった。
「何でしょうか、じゃねえ! 昨日は少しはよくなったように思ってたのによ、今日はまた殺気立ちやがって。それに仏頂面で沿道を歩くたあ、おめえはせっかくのめでたい場を駄目にするつもりかっ?」
「申し訳ありません!」
ぱっと頭を下げたその潔さは逆に駿来を白けさせた。
「本当に悪いと思ってるのかあ? おめえがそうやって自分のことでうんうん悩むのは勝手だがよ、おめえは近衛軍第一隊の隊長だってことを忘れるんじゃねえぞ!」
真っ当な指摘に仁威はぐっと唇を噛んだ。
その様子に、駿来はふうっとため息をつき、さらにその太い眉を下げた。だが目に怒りの色は見えない。実際、駿来はこの部屋に入る前から、怒りとは別の感情を持ってこの部下のことを思案していたのである。
「……だがなあ。前にも言ったとおり、おめえは隊長である前に人間なんだぞ。明日からは休日だし、ゆっくり休め。それともどこかで気分転換でもしてこいよ。そうやって一人で悩んでいても簡単に答えなんて見つからないだろう? 答えっつうのはな、思いがけないところでぽっと出てくるもんなんだよ」
ぽん、と肩を叩くと、仁威は殊勝にうなずいてみせた。だがその表情はこの上司のせっかくの忠言になんの有難さも感じていないことを物語っていた。
今度こそ駿来は本心からの深いため息をついた。依怙地なこの部下の心を溶くことはなかなか難しい。
(……まあ、焦ってもよくないだろう)
なので、今日は口うるさいことを言うのはもうやめようと決める。今日ここに来たのには別の理由もあった。
「そういやさ、おめえは知っているか? 今朝方、稽古のお相手をしていた時に皇帝陛下から直接うかがったんだが……」
言いかけたところで、コンコン、と戸が控えめに叩かれる音がした。
「どなたか?」
条件反射として発せられた仁威の声に、すうっと戸が開かれていく。
そこに現れたのは礼部侍郎・馬祥歌だった。
*
馬祥歌が訪ねてきた。
これにはさしもの仁威も正直驚いた。
卑怯なことに、駿来は仁威一人をおいて脱兎のごとく去ってしまった。紫袍の女官吏になど普段接する機会がないから、どう応対すればいいか咄嗟に判断できなかったのである。定期的に皇帝と直接剣を交えるこの国隋一の将軍であるが、それはそれ、これはこれということか。
かといって仁威もこの女と個室に二人きりになるという状況には正直困惑した。ありていに言えば、まっぴらごめんだった。そのため故意に戸を半分開けておくと、なんと、当の祥歌から閉めるよう懇願されてしまった。
普段であればそのような発言など聞こえないふりをして無視してしまう。だがここは宮城内だ。しかも相手は紫袍の官吏ときたら難しい。ぐっと我慢し、仁威は戸を閉めた。
「昨日はお疲れ様でした」
本題に入る前に当たり障りのない会話から始めるという手段は、普段の祥歌であれば選ぶことはない。実際、上司である礼部尚書相手でも、芯国の大使相手でも、祥歌は最初から最後まで必要なことのみをその口に乗せてきた。
まだ祥歌のことをよく知らない仁威でも幾分背筋がこそばゆくなる。
「……それはどうも」
小さく口の中でつぶやく。さすがに言葉が足りないかと、
「とはいえなんの問題もなく、ただ街の中を練り歩いただけでしたからね」
と、感想を述べたところ、
「いいえ! 近衛軍第一隊がいると思うだけで、皆がどれほど心穏やかにいられたか。私も安心して任務に集中できましたし、無事終えることができてほっとしております」
と、これまた祥歌らしくない賛美の数々が続けられた。どうにかしてこの喜びを伝えたい、その一心なのだ。まるで母に褒められたくて好かれたくてたまらない幼児のようで、つい笑いそうになる。だが仁威はそれをこらえた。
気づいたのだ。自分が笑うことで女を勘違いさせてしまう場合があるということに。同じ隊の部下に先日それを指摘され、あらためて自身の過去を振り返り、確かに思い当たるふしがいくつかあった。
(……だがあいつは正反対の態度をとっていたな)
仁威の笑顔に恐怖し体を震わせていた少女――その時のことを思い出し、仁威の表情に影がよぎった。
それに祥歌が気づいた。いまだ早口でまくしたてていたのだが、そのやや上気した顔からゆっくりと笑みが消える。口をつぐみ冷静さを取り戻せば、もはやここに来た当初と同じ、官吏の顔になっていた。
「こちらを」
そう言って仁威に対して手渡されたのは一つの箱であった。そちら方面に偏った思考で中身を脳内で推測していると、本人の口から、これは楊珪己の荷であると告げられた。
「どういうことですか?」
「あら? お聞きになっていないのですね。実は楊珪己は官吏補を昨日付けで辞めたのですよ」
「辞めた?」
「ええ。実は私も今朝方知ったばかりなのですが。上のほうで決めたそうです。まあ、彼女の官吏補採用もまた、その上の方々の独断で決められたことですし、もはや女武官は不要ということでしょう」
でもまあ、せっかくですから参列には同行させてあげたかったですけどね、と祥歌が続けた。それは仁威もずっと気になっていたことだった。なぜ珪己の姿が見えないのか、明確な心当たりがなく、かといって枢密院事からも何の連絡もない状況では、他に相談相手もいない仁威は一人やきもきしているしかなかったのである。
「というわけですので、これを楊珪己に渡してもらえませんか。礼部どころか、もう城内に入ることもないでしょうし」
「その……では、楊珪己は今後はどうするのですか」
その問いに「それは私も知りません」と祥歌が答えた。
と、祥歌がその鋭いまなざしを仁威に向けた。
「袁殿は楊珪己とどのような関係なのですか」
定番中の定番ともいえるその問いに、仁威はついきつい口調で返した。
「なぜそのようなことを侍郎殿に言わなくてはならない?」
祥歌が小さく肩を震わせ、そしてやや顔を赤らめた。
「いえ、申し訳ありません。ただ、袁殿は楊珪己と親しいと……いえ、非常に親しい間柄なのだと思っていましたので、そのようなことを私に訊かれるとは思っておりませんでした」
「……ああ」
失言した、と気がついた。まったく、上級官吏というものはこうも人の内面を計るのがうまい奴らばかりなのか。今度からはよくよく注意しなくてはいけないな、と内心固く誓う。
「まあ、いろいろとあるのですよ」
「いろいろ……ですか」
「そう、いろいろです」
断言し、対する祥歌の瞳を見返した。見下ろす仁威の瞳は何のごまかしもないものだ。実際、言ったことに嘘はない。そう、本当にいろいろとあるのだ。
言外に「あなたは無関係だ」と悟らされ、祥歌が困ったように笑った。もうそのまなざしには厳しく相手を追及する色はない。
「申し訳ありませんでした」
「いや。それが侍郎殿の仕事なのだろう?」
「ええ、そのとおりです。……最後に、一つ伝えておきたいことがあります。いいでしょうか?」
仁威は黙ってうなずいた。こういうときは何でも相手に言わせるほうがいい。何も言わせず奥に潜ませたものほど、時間がたち熟成することで恐ろしい威力を持ってしまう。その代表格が李清照の偏愛だ。
「実は」
だが、祥歌から語られたそれは仁威の予想したような甘ったるいものではなかった。




