3.命の原資に輝く瞳
「……なに? いなかっただと?」
従者が持ち帰ったその情報は不愉快極まりないもので、イムルが苛立たしげにその足で床を蹴りつけた。
ここは芯国の重臣に与えられた本日のかりそめの居室である。今この部屋にはアソヤクとイムル、そしてこの従者しかいない。イムルの足元、だん!と床が鳴ると、その音は天井高い室の隅々にまで伝ぱしていった。
音とともにイムルの怒りによる熱砂もまた室内に広がっていき、この場をひたひたと満たしていく。
「……どういうことだ?」
地を這うような声音には宴のときのような天真爛漫さはない。蝋燭の灯された薄闇の空間で、イムルの周囲にだけ血のように深く濃い気が揺らめいている。少しでもこの青年に近づけば、刃なしでも体中を切り刻まれることになる――。そう錯覚してしまいそうなほどイムルの憤怒はすさまじかった。
恐れおののき震えながらも、従者はか細い声をなんとか振り絞って答えた。
「趙龍崇様の名で呼ばれたと……。私が行ったときにはもはやその楽士はおりませんでした……」
「趙龍崇? ああ、あの黒ずくめの男か」
イムルは思い出すや、またも衝動のままに右手で作った拳を左の掌にばしっと叩きつけた。その音の強さと鮮烈さは、イムルが武芸に通じていることを証明している。
あの男はなんとなく自分と似ているところがあった。そんな奴に負けたと思うと、余計に悔しさがつのる。
「我らはたばかられたのではないですか。嫁ぎ先があるというのは嘘だったのでしょう」
隣に座るアソヤクがのんきそうに言った。
「たばかられた? ……くそっ。アソヤク! お前は腹がたたないのか!」
立ち上がり睨み付けてくるこの副官の青年に、上官であるはずのアソヤクは表情一つ変えない。
「なぜそこまであの楽士にこだわるのですか? あなたには国にちゃんと妃がおられるではないですか」
それを聞くや、イムルは不愉快げにどさっと椅子に座り直した。
「俺はあいつらなんかいらない」
「何を言っているんです。すでに二人の妃それぞれとの間にお子まで成されているというのに。お父上が聞かれたら嘆かれますよ」
「知ったことか。俺がほしいのは」
身を乗り出してきたイムルの口を、アソヤクの長い指がそっと押さえた。
「……ご自身の半身がほしいのでしょう? それはもう聞き飽きました」
対するイムルはその言葉に心底うれしそうな笑顔を見せた。
「そうだ、よく分かっているな。俺がほしいのは俺自身の半身。俺の心と体が求める、分かつことのできない俺だけの半身だ」
「で、それがあの楽士なのですか?」
「分からない。だがそうかもしれないと思った。そう思った女は初めてだ。だから話してみたかった。ああくそっ、すっかり騙された」
わしゃわしゃと頭をかきむしるイムルに、アソヤクがそっとため息をついた。
「王子ともあろうお方が、まったくなんですか」
「いいだろうが。王子だろうがなんだろうが唯一を求めて何が悪い」
「だから湖国に駐在するのですよね。その身分を隠されて、私の副官なんて立場までこしらえて。ええ、本当に来てよかったですね」
少し、いやかなり嫌味なその言い方に、しかしイムルは満足げにうなずいた。
「ああ、本当に来てよかった。本当はお前が帰国の途についた後に、一人でゆっくりと探そうと思っていたんだがな。それがまさか、こんなにすぐに見つけられるとは。やはり俺の半身は俺の国にはいなかったんだな。もっと早くに国を出ていればよかった」
さっきまでの怒気はどこへやら、今はまた宴の時のような華やかで浮足立った表情を見せている。
無垢な少年のごとき奔放な彼と、人を支配することに慣れた王子としての彼――イムルの中には矛盾なくこの二つの性質が同居していた。人によっては二重人格のように見えることもあるが、それらが表裏一体で共存してきたからこそ、イムルは今まで生きてこられたのである。それは誇張などでは決してない。そのことを付き合いが長いアソヤクは十分理解していた。
「いやはや、王子はすっかりセツカ殿に感化されていますね」
「そうだな。セツカはもういないが……だが俺の中にあいつは今も生きている。あいつが言っていたことは嘘じゃない。自分と対を成す人間はたしかにこの世にいるんだ」
きらきらとその瞳が輝く。
普段は黒に近いその瞳、しかし輝けば透き通るような青一色となる。この世のもっとも価値ある宝石でも、この瞳ほどには美しく煌めくことはないだろう。そこには命の原資ともいえる艶があり、彼を形作る意志が宿っており、彼にしか持ちえない熱い命が見えた。それは彼がただ一つの情熱によって生きているからこそ表現される美であった。
と、そこに別の従者が現れ、一人の男の来訪を告げた。
「ああ、待ってたぞ。早く入れ」
うながされ室に入ってきたのは、濃紺の袍衣に身を包む青年であった。伏せられた顔は見えないが厳しく引き締められている。
「いやあ、ちょうどチュアルが礼部で働いていてよかったよ。宴で見かけたときは正直驚いたぞ」
気安く声をかけられ、その官吏補が身を固くした。
「……その名を呼べるのはセツカ様だけです」
「分かった分かった。お前は今もセツカにべったりか」
二人は今、芯国の言葉で話をしている。礼部の官吏補のほうもイムルに引けを取らぬ滑らかな発音で語っている。これほど芯国の言葉に精通した者は湖国でも数少ないだろう。
「それで本日はどのような御用で。……あの、このようなところに呼ばれると僕も困ります」
官吏補の心底困ったというその声音を、しかしイムルは意に介することもなかった。もはや目の前にぶらさがっている己の半身を手に入れることに夢中になっているのだ。
そう、イムルにとって、己の半身を獲得することはこの人生を懸けたもっとも重要なことなのであった。
「礼部にいる官吏補で、年のころ十五、六くらいの女がいるだろう?」
「ええ……いますね」
イムルに逆らえないことは重々承知しているし、ここで回答を引き延ばしても良いことなど何もない。
「それがどうされたのですか?」
「その女について知っていることを全部教えろ」
予想外の質問に何度か目をしばたき、それからその官吏補は頭をめぐらせながら淡々と答えていった。
「名前は楊珪己、年はたしか十六。官吏の娘だそうですが、詳しいことは知りません。特技は力仕事……」
「力仕事? はははっ。さすがは俺の半身だ!」
活気づいたイムルに対して、逆にその官吏補は眉をひそめた。
「……半身? イムル様、まさか楊珪己を己のものにしようとされているのですか」
「そうだ。問題あるか? 張温忠、お前も俺と同じでセツカの話を聞いて育った仲だろう。この世のどこかにいる己の半身、運命の片割れ。そいつを求めて何が悪い」
「……しかし、そう思われているのはイムル様のほうだけかもしれません」
官吏補――張温忠は思わず抵抗していた。
そう、たとえば自分自身がそうだ。
温忠にとっての半身はセツカ。
しかしセツカにとっての半身は――別の男だった。
温忠は今もセツカに恋をしている。しかし、異なる二人が、同じ時期に同じぐらいの強い気持ちで求め合うことなど、よくよく考えてみれば奇跡に近いことなのだ。そしてその奇跡を与えられる人間は、この世界に一体どれだけいるのか。
少なくとも、温忠も、そしてセツカも、神に選ばれた人間ではなかった――。
イムルが不愉快そうに温忠を睨みつけた。
「なぜそんなことを言う?」
その強い視線にも当然逆らえるわけがない。そしてこの王子の生きがいともいえる運命論をこれ以上否定することも……できない。
なぜなら、温忠もまたその運命論に殉ずる道化者であったからだ。
覚えている方、いますでしょうか。
チュアルという名は第3巻第4章5「こんな朝には何を思う」後半に一度出ています。




