2.一本とられたのは
「それにしても、今日は英には一本とられました」
飛橋内、他に誰の姿もない閉鎖された細く長い皇族専用の通路を、龍崇は異母兄の英龍と二人で華殿へ向かって歩いている。
ようやく宴が終わった。
ようやく、というのがまさに言いえて正しい宴だった。
英龍は芯国人に対して友好的な態度を貫くために細心の注意を払い続けた。なのに当の問題児であるイムルがことあるごとにその一点に触れてくるので、龍崇はいっそ本気で怒鳴りつけてやろうかと何度も思ったほどだった。日頃は飄々とした雰囲気のあるこの皇族の青年の胸の奥に、宴の終了した今も鬱憤が消えずに残っているのだから、相当な修羅場だったと言えよう。だがそのたびに、このやや短気な年若い皇族を、年配者の龍顕と龍曹がとりなし、その隙に英龍がまた理想的な場に戻すべく動き……その繰り返しだった。
だが龍崇が今語った不満の種は、この親愛なる異母兄に由来することの方だ。
「一本? なんのことだ」
「まさか! 私が何も分かっていないとでもお思いですか。楊珪己のことですよ。最近あなたの機嫌がよかった理由がようやく分かりました」
それもそうだ。英龍はその姿を見ることなく、イムルが望んだ楽士に対してあれだけ瞬時に、過敏に反応したのだ。ちょっと考えればすべてのことが理解できる。英龍は珪己が楽士として宴に参加することを事前に知っていたのだ。知ったのは当然、機嫌のよくなった前日のこと、先日龍崇とこの飛橋で別れた後のことだろう。楊珪己の奏でていた龍顕そっくりの音もそれを裏付ける証拠だ。
「なぜ教えてくださらなかったのですか」
英龍は隣を歩くこの異母弟がやや唇をとがらせているのに気づき、なんとはなしに愉快な心持になった。
「なぜだろうなあ」
「……英!」
「では逆に訊くが、そなたは楊珪己とどこで交流を深めていたのだ」
「は……?」
「そなたも余の知らないところで楊珪己と会っていたのではないか?」
指摘され、龍崇は言葉につまった。今宵、龍崇が異母兄のことを理解できたように、英龍もまた異母弟のことを理解できたというわけだ。
「……すみません」
「なぜ謝る? 謝ることはなかろう」
「ですが……」
「我らは兄弟であり皇族であるが、お互いのすべてを見せあう必要などないのだぞ。何か秘密があってもよかろう。そうではないか?」
言われ、龍崇は戸惑いながらも小さくうなずいた。この異母兄のすべてを把握しておきたいと願うのは、皇帝付の部下としての義務といえる。愛しているから、ただそれだけで生じた願いではない。実際、龍崇もこの異母兄に対して秘密にしていることはある。楊珪己のこともその一つだった。
尊敬し愛しているからといって、自分の中にあるすべてのものを捧げたいとは思えない。
そんな自分が突如不埒に思えた。
異母兄に対するこの感情は、まだまだ未熟なものなのかもしれない。もっと強く相手を想う、自分のすべてを無条件で捧げたいと思う感情があるのかもしれない。
自分にとってのそれはこの異母兄ではないのだろうか。
自分にもっとも血の近いこの皇帝が『その人』ではないこともありえるのだろうか?
「何を考えている?」
「いえ、特には」
あわてて答える龍崇は、あきらかに何かを思案していたようだ。それゆえ英龍はよりいっそう愉快な気持ちになった。
「ああ、疲れたな。さあ帰ろうか」
「……ああ、英。お疲れとは思いますが、実は私の部屋に芸事の者を一人呼んであります。英のために用意したのですからこのままお寄りください」
唐突だが決定事項として述べられたその言葉に、英龍の足が止まった。
「……崇。余にはそのような者はいらぬ」
「何をおっしゃいますか。このような宴の後は、皇帝御自らその寵愛を下々の者へ分け与えるのは責務ともいえましょう」
しらっと答える龍崇のその表情が、宴中にくすぶり続けていた英龍の怒りに火をつけた。先ほどまでの愉快な気持ちはあっという間に霧散している。
「崇! そなたまでいい加減にしないか!」
龍崇は皇帝の怒りを受け止め、しかし表情を変えることなく続けた。
「私は英のために女人を用意すると先日述べました」
「しかし……! そなた、あのような宴の後によくも言えたものだな!」
「呼んだのは楊珪己です」
「楊……珪己?」
その名にぴたりと怒りが収まった。
代わりにその隙間を埋めるかのように、英龍の胸に悲しみがひたひたと押し寄せてきた。
「……楊珪己には嫁ぎ先が決まっておるではないか」
龍顕が宴の場ではっきりとそう言っていた。
すると龍崇がその片眉をあげた。英龍の変化の具合は龍崇の望むとおりのもので、それが内心うれしかったのである。
「おや、お気づきにならなかったのですか。あれは嘘ですよ」
「嘘?」
ぱっと顔をあげた英龍はなんとも分かりやすく、喜びを秘めた驚きに彩られている。なんとも可愛らしい異母兄だ。
「そうですよ。あれはその場のでっちあげです。ああでも言わないと楊珪己の貞操が奪われると、顕叔父が口から適当に言っただけのことですよ。実際、そのようなこと申請すらされておりません」
高位の家の者同士の婚姻には皇族の許可がいる。その申請がされていないということは、楊珪己には婚約者などいないことは明白である。申請以前に、楊珪己には想う相手すらいない。李侑生に恋されて何やら手を出されたことが一度あるだけのことだ。
「……そうなのか。いや、これは余のほうが一本とられたな。すっかり信じてしまった」
「『天子門正』に不義は働かぬ、ですか?」
からかうように真似をされて、英龍が苦笑しながら龍崇の肩をぽんと叩いた。
そのような軽妙な行為を示されたことのない龍崇がおやという顔をするのを、英龍はははっと笑い、そしてまた同じように叩いてみせた。
英龍の足は迷いなく西宮へと向かい出し、龍崇はその後ろをついていく。
飛橋を出たところに二人の侍従が待ち受けていた。一人はこの西宮にて飛橋を守護する者、もう一人は龍崇付である。龍崇付の侍従が主人に何やら耳打ちをし、それを龍崇が小さくうなずきながら聞いている。英龍はもう一人の侍従から「楽士はすでに黒太子の室に通しております」と報告され、内心戸惑いつつもうなずいてみせた。皇帝になって十年、このようなことを臆面もなく告げられたことは一度たりとてなかったのだが。
侍従らと別れ、二人、西宮内の廊下に入ったところで英龍が尋ねた。
「しかしなぜ楊珪己をここに呼んだのだ」
龍崇が苦笑した。それはもちろん……と言いたいところだが、それをこらえて別次元から見た回答をする。
「私が呼ばねば、やはり楊珪己はあの不届き者の寝所に行くはめになっていたということです」
「それは本当か?」
やや見開かれたその目が、英龍がまったくそのことを予期していなかったことをうかがわせる。皇帝だからといってすべての事象に通じているわけではないことが、この異母兄を見ていると如実に分かる。しかし体験しようのない人生を歩んできたのだから仕方ない。
「ええ。実際、先ほど私の侍従から聞いたところによると、芸事の者の控えの間に芯国の従者がたずねてきたようです。間一髪でした。ああ、私の名で呼んだのは、ただ単に英が呼んではよろしくないからです。なんといっても『天子門正』に嫁ぐ女性ということになっていますからね」
「……崇の名で? しかし崇の名とはいえ、この西宮に呼んだとなれば、初春のときのように楊珪己にいらぬ心労をかけるだろうに」
「大丈夫です。彼女は私に呼ばれて悲嘆にくれるような娘ではありません」
「では……喜ぶのか」
なぜそのような発想となるのか、察しがついて龍崇はまたもうれしくなった。
「いいえ、違います。たぶんそう……怒っているでしょうね」
「怒る? なぜだ?」
「まあ、それは実際に会ってみればわかります。ああもう着きましたよ。楽しみですね」
龍崇が前に立ちその室へと一直線に向かっていく。それを皇帝である英龍が遅れてついていった。すっかり立場は逆転している。そう、恋に関して英龍がこの異母弟に勝てるわけがないのだ。




