8.玄徳の怒り
イムルが数ある楽士の中から楊珪己を指さした瞬間を、上座にいる楊玄徳は目撃していた。この宴でもっとも重要な参列者は、湖国の皇族らと芯国の大使らである。であるから、ちょくちょく彼らの様子は観察するようにしていたのだった。それにより、声は聞こえなくとも、雰囲気だけでも、この宴の成功のほどを察することができる。
愛娘を指さされ、まず玄徳の胸の内に広がったのは当惑だった。なぜ娘が芯国の人間に興味を持たれたのか、と。まさか琵琶の腕前を称賛されているとはさすがの玄徳でも思わない。しかし、自分の娘ながら、その美しさで目を付けられたとも思えない。
すると、突如二人の皇族、英龍と龍顕の表情が険しくなった。娘に視線をやった龍崇もまた二人と同様に顔色を変えた。朝議の場で公蘭と龍崇の間にはっきりとした火花が散ることはあっても、このような晴れやかな場で三人もの皇族が驚きを隠しきれないというのは異常事態だった。
三人のうち、玄徳がもっともつきあいの長い龍顕の態度から、あの芯国の青年が何を言ったかを想像する。龍顕は珪己にとって第二の父親であり、また、亡くした母の代わりになるほど親しむ存在だ。そして恐れ多いことに、龍顕もまた珪己のことを可愛がってくれている。だからあの高貴な場で何が語られているのか、推測を重ねれば察しがついた。
親として内心はらはらとしながらも、さすがに楽士の身であるから免れることだろうと、冷静さの残る頭の片隅で行きつく先を予想する。
しかし、皇帝と黒太子の感情の変化の度合いがやや強く見えるのはなぜだろうか。あの二人は初春の事件で珪己と面識はある。王美人の暴挙の際には二人自ら後宮に押し入り珪己を救出したとも聞いている。だが、それにしても度がすぎてはいまいか。
(初春の事件の悔恨があのお二人の同情ともいえる怒りをかっているのだろうか……?)
どうしても紫袍の官吏らしい分析をしてしまう。
そんな自分に嘆息しつつ、しかしちらちらとさりげなく問題の場を観察し続けていると、玄徳の脇にそっと侑生が近づいてきた。いつの間にいたのか、空いている隣の椅子に座ると、その腰に挿した扇子を広げ、口元を隠しつつ玄徳にささやいた。
「何かよからぬことが話されているようですね」
「そのようだね」
ちらと見ると、侑生の眉はきつくひそめられていた。隠されたその口元が横に座る玄徳にははっきりと見えた。柔らかな春風のような口調とは真逆の、血がにじみでるのではないかと思うくらいに唇をかみしめるこの部下に、なぜだろう、自分が先ほどまで抱いていた負の感情のすべてを吸いつくされた気持ちになった。
龍曹が何か言いかけたところを、龍顕がその一声で防いだ。しかし芯国の青年の返答に、あの龍顕が言葉につまった様子がうかがえる。思った以上に苦戦しているようだ。
「大丈夫でしょうか……」
絞り出すようにささやかれた侑生の言葉に、今まで自分が見てこなかったこの部下の心の奥底をようやく覗いたように思った。
「君は大丈夫なのかい」
思わずそう尋ねていた。
「……え? 私……ですか?」
その質問の突飛さに侑生が玄徳に視線をうつした。二人の視線がかち合った。じっとお互いを見つめ合い、いつしか玄徳は侑生の、侑生は玄徳の、瞳の奥にあるはずの感情を読み取ろうと試みていた。
侑生がはっとした顔をした。玄徳に探られているという事実が、瞬く間に一つの答えにたどり着かせたのだ。はたと扇子が取り落とされた。現れた頬はやや赤らみ、その視線は揺らめいていた。
部下の表情の変化から玄徳は解を見つけた。いや、実際には、事前に知っていた解が本当に正しいのかどうかを確かめてみたにすぎない。
玄徳は何も言わずに問題の場に視線を戻した。見ればいつの間にか当初のような和やかな雰囲気に戻っている。誰が成しえたことかは見逃してしまったが、娘は危機を脱したようだった。安堵のため息がもれた。
玄徳は杯に口をつけた。横顔は痛いくらいの視線を感じながら。しばらく無言で酒を味わっていると、やがてたまらずといった感じで侑生のほうから声をかけてきた。
「玄徳様……」
玄徳は杯を机に置くと、ゆっくりと侑生に振り向いた。
「君は何も悪いことはしていないよ」
「……え?」
見れば予想通り、懺悔する罪人のように侑生は打ちひしがれていた。こんなふうになった侑生を玄徳はこれまで何度となく見てきた。自分の前にいるというだけでこのようにみじめに頭を垂れてしまうこの青年……。玄徳は調印式の前に公蘭とかわした言葉を思い出さざるをえなかった。
「君が誰に何を感じようが、それは君の自由だ。私は君に恋をすることを勧めた。君はそのとおり恋をした。何も問題はない。それに私の娘が魅力的なことくらい、親の私が知っているしね」
そう言って片目をつぶってみせた玄徳に、しかし侑生はまぶしいものを見たかのように視線を降ろした。
「ですが……玄徳様はお怒りではありませんか」
「……私が? 怒る?」
「はい。玄徳様がお怒りであることくらい私には分かります」
(そんなことばかりが上手になって……)
玄徳は内心でため息をついた。
「じゃあ、なんで私が怒っているか分かるかい?」
「それは、私のような者が珪己殿に、その……不届きな想いを抱いたことに関してでは」
自分で言いながら情けなくなったようで、侑生が悲しげにその切れ長の瞳を伏せた。長い睫が頬に影を作る。
今度こそ玄徳は隠すことなく盛大にため息をついた。
「違う」
明瞭に否定され、侑生が伏せたままその視線をさまよわせた。
「で、ではなぜ」
まったく分かっていないこの部下が、玄徳は悲しくもあり愛しくもあった。
「君がそんなふうに自分を卑下することが気にくわないんだよ」
玄徳にしては汚い言葉使いとその内容の意外さに、侑生がその顔をあげると、玄徳は向こうで琵琶を奏でる珪己のほうを見つめていた。そしてそのまま、まるで遠い空を眺めるように語りだした。
「私は君には自由に生きてほしいんだ。私や楊家にかまうことなく自分の気持ちに素直に生きてほしいんだよ。だから君が誰に恋をしたって、それは自由なんだ。……いいかい、君は自分の価値をもっと信じなさい。この八年、君がどれだけ努力してきたか私は知っているよ。確かに君は良いことだけではなく悪いこともしてきただろう。だがそれは誰だって同じだよ。私だって同じだ。良いことや悪いことに優劣をつけて喜ぶなんて真似、私はしない。したくない。……そう、要は君の心の持ちようなんだ。君のようにまっすぐに己に向き合ってきた人こそ、誰よりも素晴らしいと私は思うよ。自分と真摯に向き合うこと、これ以上に辛く厳しいことなんてないじゃないか」
それはこの罪深き青年にとっては途方もない賛美の言葉だった。
「だから君が私の娘に値しない男だとは露とも思わない。……そう、娘が望むなら君と婚姻の契りを結んでもらってもいい」
「玄徳様……!」
あの楊玄徳が自分をここまで評価してくれているとは。そして大切な娘を譲り渡してもいいと言う。突如押し寄せた感動の波が、瞬く間に侑生を高みへと押し上げていった。
先ほどまで胸の内で押さえつけられていた恋心もまた、解放されて軽やかに踊りはじめる。捨て去るべきと決心した恋心が、野蛮で醜いものとみなしていた恋心が、きらきらと浄化されていく。小さく胸の内で灯るあの一夜の思い出が熱いほどに光り輝きだした。
気づけば侑生の目には涙があふれていた。零れ落ちそうなほどに湛えられたその涙に、玄徳は苦笑しながら侑生の手から扇子を取り上げるや、この部下の目の前で開いてみせた。二人以外には見えないように隠された薄い青の扇子の奥で、侑生の瞳からたまらず一筋の涙が零れ落ちた。
「……ありがとうございます」
どこまでも優しい、慈悲深い上司だった。
そっと隠されたまま涙をぬぐう侑生に、しかし玄徳は朗らかに言った。
「でも、それを決めるのはうちの娘だからね。それは分かっているよね」
侑生は思わず笑い、そしてしっかりとうなずいた。




