7.あの琵琶奏者を寝所へ
アソヤクが寂しげに笑った。
「此度の遠征、この件だけが悔やまれますが仕方ありますまいな。帰国しましたら私がシムグゥアルの王に叱咤されるでしょうが、しかし陛下にそのようにおっしゃられては致し方ありません」
シムグゥアルとは芯国の正しい国名であり、より正確にはシムグゥアル王国という。湖国人にはその通りに発音することはおろか、詰まらずに言い切ることも難しいその名に興味を引かれたのか、龍曹の視線がアソヤクにじっと注がれた。
と、そのアソヤクの目が皇族らの視界からははずれた奥のほうへと動いた。
「しかし、貴国の舞踏家はみな美しいですな。先ほどの歌も素晴らしかった」
「それは恐れ入る」
にこりと英龍が笑った。
「貴国では芸事の女人はみなああいう装いをされるものなのですか。我らが知っているものとはだいぶ違っておりますね」
アソヤクが言うのは、彼が自国で仕入れていたやや古い知識によるものである。当然の疑問に芸事を司る龍顕が答えた。
「あれはこの宴のための特別なもの」
「そうですか。まるで我が国と貴国の文化が融合したかのような装いですな。実にすばらしい」
湖国にしては鮮烈な色使いではあるが、芯国にしては控えめな優雅さもある。アソヤクが英龍にならうかのようにほほ笑んだ。
「次は我が国の芸事の者も連れてきましょう。きっとお楽しみいただけることと思います」
「それはいい。なんとも楽しみなことだ」
各国筆頭の二人の手腕によって、この場はまたも当初のような温和な雰囲気へと戻っていった。そう、この宴はあくまで両国の友好関係を再確認するためのもの。であるから、お互い腹に一物を抱えていたとしても、このような場でおおっぴらに開示する必要などないのだ。それはまた時をみてどちらからともなく実行されることだろう。それが外交というものだ。
と、このままあたりさわりのない会話に移行しようとしていたこの場がまたもイムルによって乱された。
「今宵あの者らの一人を我が寝所に呼ぶことはできますか」
突飛とも思える願いは、わざわざ口に出されたこと自体に違和感はあるものの、しかしこの場では不遜ともいえない。なぜなら、このように諸外国の王族、重臣らが宮城に招かれた日、彼らは宮城内、内壁に囲まれた華殿の離れで一夜を明かすからだ。
そこでは命じられた女官が彼らの世話をし、幾人かの踊り手が楽士を引き連れ宴の続きとばかりに芸を供する。そしてそのうちの誰か、または複数が彼らに手を付けられることがあるのだが、それはこの宮城では黙認されていた。これも外交の一部といえよう。
もちろん、それを承知で女官は従い、踊り手はこの任に就いている。その職種の主たること、たとえば踊り手であれば『踊りたい』という一心のみでこの仕事に就くものなど、この国には一人もいない。春燕のように良縁を期待するもの、踊り以外に禄を稼ぐ手段のないもの、または親族に強要されてこの世界に入ったもの――動機や事情はどうであれ、誰もが勤めのうちに潜むこの事実を受け入れる覚悟を有しているのだ。
また何を言っているんだ、といわんばかりのアソヤクのあきれたような視線を受け、しかしその青年は期待に満ちた顔で返答を待っていた。
英龍と龍崇はそろって口を閉ざした。二人にとって、こうも臆面もなく外交の醜い部分を語られるのはあまり気分のいいことではなかった。自国民を犠牲にすることを半ば強要されているようでもある。二人こそもっとも気高き皇族であるのに、だ。
このような時に言葉がたやすくでるのはやはり壮年の彼らだ。
龍曹が鷹揚にうなずいた。
「もちろん、いかようにも。すでに気にいった踊り手がいますかな?」
「いいえ」
龍曹に向き直り、イムルが満面の笑みを浮かべた。
「踊り手ではありません。私はあの琵琶奏者に興味があります」
通訳されたその言葉に、続いて青年が指差した方向を見ることもなく二人の皇族の顔色がさっと変わった。二人の間に座る龍崇はただならぬ気配を感じ、しかし芯国の面々に悟られないようにゆっくりと指されている方向に目をやった。
そこには龍崇のよく知る少女がいた。無心で琵琶をつまびく少女がいた。その指の動きから、龍顕が先ほど語っていた新参者こそこの少女であることも一瞬にして分かった。
どうして、と疑問だけが頭の中を駆け巡る。龍崇は少女が琵琶を弾くことも、楽士としてこの宴に参加していることもまったく知らなかった。ここ数日少女を見かけなかった理由はこれだったのだ。
この場にいる四人の皇族のうち三人までもが特異な態度を示していることに、アソヤクや龍曹が何やら思いつつ眉をひそめる中、イムルが歌うように語った。
「あの楽士のあの無表情さがとてもいいですね」
「もしや気分を害されたか」
やや青ざめている龍顕のその言葉に、しかしイムルは首を振った。この場で今、彼だけが場違いなほどに快活だった。その頬を桃色にすら染めている。
「いえ、すごくいいと言ったのです。私はあの楽士に非常に興味を持ちました。奏でられる音はあの楽士の表情のとおり、無心の境地にいることをよく表しています。しかしあの者、演奏を始めるまではこの場でもっとも強い気を放っていました。そう、まるで剣士のようでした。武を貴ぶ我が国には少なからず女剣士もおります。ですがそれでも、あの者のような域にまで達している者はおりません。なぜ剣を持たずして、あの若さでかような性質を有するに至ったのか。ぜひとも直接話をしてみたく存じます」
「さすがは芯国の方だ。女人に対してまで武芸と結びつけるとはなかなかできることではない!」
四人の皇族の中で、唯一事情を知らない龍曹が感嘆の声をあげた。もちろんそれは本心からの驚きではなく、この場をなごませようとする儚い努力のあらわれである。
「イムル殿は開陽にしばらく駐在されると聞いている。要望されるのであれば我が国の武官と話す場を設けるか」
するとイムルがすました顔で言った。
「いえ、それには及びません。男の武官の考えることはだいたい察しがつきます。私はあの女楽士に興味があるのです」
まったく退く気のないイムルを、彼の上司であるアソヤクはたしなめることなく黙って様子を眺めている。
となれば湖国側がするべき回答は一つしかない。外交とはそういうものだ。
だが、龍曹が『是』と答えようとしたそれよりも一瞬早く、龍顕が口を開いた。
「すまないが我が国では楽士にはそのような任は与えておらぬ」
イムルが小首をかしげた。
「過去に同じようなことは何度かあったはずですが」
龍顕の喉がぐっとつまった。無邪気そうに見えて、さすがは芯国の大使のそばに立つだけのことはある。
「……よく御存じだ。だがあの者は今宵だけの臨時の楽士。それに嫁ぎ先も決まっておる身。残念だがあきらめていただくしかない」
龍顕の明瞭な拒絶に、やや芯国よりの中庸さをただ一人貫いていた龍曹も口を閉ざした。英龍と龍崇のほうも黙したまま身じろぎひとつしない。湖国側の意志が固まったことを、その場にいる誰もが肌で感じた。しかしイムルのほうもあきらめるつもりは毛頭ないようで、
「……では、ますます話をしてみたいですね」
と、その瞳を輝かせた。瞳の奥に青い光が見える。
「あのような性質をもつ女人が結婚とは! いえ、彼女は嫁ぐことで幸福になるような者とは到底思えないのですよ。そして彼女自身もおそらくそのことをすでに分かっているはずです」
それでも首を縦にふらない湖国の面々に、イムルは小さく肩をすくめた。
「分かりました。ではお約束します。彼女に手をだすことはしないと。それで嫁ぐ方へは面目がたちましょう。ただ話をするだけ、それでいかがですか」
提案すると、イムルは四人の皇族を見比べた。いつまでも口を閉ざす皇族らに、しかしイムルもまた忍耐強く返答を待っている。重苦しい空気の中、単調な曲が流れ、同じような旋律が飽きることなく繰り返されては消えていく。このような時、このような曲は腹立たしさを助長する効果しかない。
龍顕がそっとため息をついた。たかが楽士一人のために、この歴史的な宴の場をこれ以上乱すことはできなかった。
この場で答えることができるのは、少女の父に対して汚れ役を担うことができる自分しかいない。龍顕は腹をくくった。
「……それなら」
「いや、断る」
突如口を開いたのは、それまでこの場を見守ってきた皇帝その人であった。
「あの者の嫁ぐ先は『天子門正』の男。余は余の門正に対してそのような不義は働かぬ」
「天子門正……ああ、貴国では殿試に通過した官吏をそのように呼ぶのですよね」
文官となるには、科挙と呼ばれる難関な試験を通過する必要がある。そして合格者の中でもひときわ優秀な者のみが、さらに特別な最終試験、殿試を受ける資格を得る。そこで受験者は皇帝と直接対峙して問答を行う。そのため、この殿試に通過した者を『天子門正』、すなわち皇帝の弟子と呼ぶ。『天子門正』自体には何の位もないが、その名はこの国では非常に重要な意味をもつ。
「しかし、天子門正に嫁ぐ女性が琵琶奏者とは、これまた面白いですね」
「今宵は筆頭奏者が不在で致し方なかったのだ」
「それでも非常に興味深いことです」
なおも追及の手を止めようとしない芯国の青年に、英龍がきつく眉をひそめた。しかしそれも一瞬のこと、すぐに皇帝然とした表情を取り戻した。
さっと両手を広げるや、肘にその手を置き、背もたれに優雅に寄りかかる。この国で唯一彼のみが身に着けることができる黄袍が、とたんに眩しく光り輝いた。
「曲を聴かれるのは貴殿の自由だ。そこまでは我が天子門正も何も言わぬ。――さあ、曲を楽しまれよ。歌を、踊りを楽しまれるがよい」
そこで会話は終了となった。……いや、皇帝自ら終わらせたのだった。




