6.投じられた炎
「今日の琵琶はどうだ?」
龍崇は叔父の龍顕に話しかけられ、ややその目を細めた。
「まあ悪くはないですね」
この場の芸事を取りまとめる年上の皇族に対して、この無礼ともいえる言動は、しかし龍顕にとっては何の反発も起こさない。それどころか愉快そうにははっと低く笑った。
「相変わらず手厳しいな」
「ですが今夜はそれなりに腕の立つ楽士が入ったみたいですね。いつもと音が違う。確か筆頭奏者が怪我で不在と聞いていましたが」
「そうだ。だから代わりを急きょ連れてきたのだ。だから彼の者は本当の楽士ではないんだな」
「しかしその割には顕叔父に忠誠心厚い者のようだ」
「なぜそう思う?」
「音を聴けば分かりますよ。まるであなたがもう一人いるようだ」
さも当然といわんばかりに龍崇が答えた。まだ宴は始まったばかり、一曲目も中盤のこの段階で、龍崇は新参者の音をすでに見破っている。そのことに内心龍顕は舌を巻いた。だがその驚きは表には出さない。控える侍従から杯を受け、椅子の上で座り直し、龍崇のほうに上半身のみで近寄る。そしてもったいぶった調子で密やかに告げた。
「たしかにあの者は私が力をいれて指導している一人だ」
「そうですか。ですがもったいないですね。あなたと同じ音を奏でるだけの者など人形でしかない」
その言葉には何の感情も含まれていないかのようだった。それが逆に、『もったいないなどとは思っていない』と主張しているようにも聞こえた。
龍崇はその耳だけで琵琶の音を聞き分けることができる。だから最初の数拍分が奏でられた段階で、もう今夜の芸事への興味は跡形もなく消え失せていた。今この場にいる琵琶奏者は、いつもの上席楽士と、あとは龍顕に心酔する新入りしかいない。
もちろん、龍顕がまとめあげる楽曲はどれも常に素晴らしい。が、今の龍崇が心から望む音ではない。ただそれだけのことだ。だから龍崇は、今宵、楽士のことも、踊り手すらも、視界に入れようとはしていなかった。
(今日は少し弱っているのかもしれない)
龍崇はそのことに気づき、一人自嘲した。普段であれば、龍顕によって構成された音楽で十分心が満たされるのだ。それができない理由は自分でも分かっている。
横目でちらりと隣に坐する英龍を見ると、彼はアソヤクら芯国の面々との会話を楽しんでいた。龍崇くらいになると、全方位からのささやきに近い複数の会話でも十分理解することはできる。
芯国では、湖国産の花や茶や果物、陶磁器、それに北の山脈に埋蔵する鉱物に注目しているようで、今も彼らは盛り付けられた茘枝を手に取り、興味深そうに眺め香りを確かめている。
また、それだけではなく、湖国の一学者が開発したばかりの羅針盤についても、独占販売権を芯国に付与することがこのたびの調印式で約束されている。羅針盤を国外に出すことについては今でも議論になる。これ一つでどこにでも容易に行けるのであるから、羅針盤を有する者は世界の覇者になることも可能ともいえるからだ。それは湖国の防衛を危うくするやもしれない。
だがこの時代、いくら隠していても、いつかはこの技術が国外に流出するだろう、または誰かが開発するだろう、との識者の見解を皇帝は支持した。今も羅針盤なしで、星々を観測することで、各国の船は大航海を縦横無尽に泳ぎ渡っている。すでにこの大地は一つの丸い球体であることも分かっている。たかが漁師ですら星を読める。であれば羅針盤は門外不出にするほどの物ではない。そう判断したのだ。
その羅針盤と引き換えに、湖国は、西欧の書物を大量に手に入れることを芯国側に約束させた。また、芯国の取り計らいにより、西欧から十名の医者、そして各分野の学者を首都・開陽に呼び寄せることも決まっている。国が安泰している今こそ、民の生活や技術の向上に力を入れ、今以上に国力を増強させたい。そう考えている。
曲が変わった。『星雲伝』だ。ぽろぽろとこぼれるように、軽やかな音が爪弾かれていく。曲を知るものであれば、このまだるっこしい会話が続けられていくことは容易に想像がつく。
小さく息をついて杯を干した龍崇に、アソヤクの向かいに座る芯国の青年が気づいた。
「あまりこのような席は好まれないようですね」
通訳を介しているとはいえ単刀直入に指摘され、龍崇はその顔に故意に人好きのする笑みを浮かべた。
「いや、そのようなことは。貴殿らとともに過ごせるこのひとときを楽しまないものなどいまい」
その青年が龍崇をちろりと見た。その目には幾分かの嘲るような喜色が見えた。
この青年、外交に加わる重臣なのだから、湖国の慣習に対して無知であろうはずがない。確かイムルとかいう名のこの男、皇族に対するこの愚行は年若いゆえのものか、と笑顔の裏で龍崇が推察していると、その青年の隣でアソヤクが茘枝を脇に置き、「それはそうと」と口を開いた。
「本当に例の件はご遠慮なされますか。我が国のほうではぜひにとのことでしたが」
その瞬間、ぴんとその場の空気が張りつめた。アソヤク自身の目も、その笑みの奥からひたと英龍に注がれている。
龍崇が二人の間に入った。
「ありがたい申し出ではあるがその件は断る」
笑みの向こう、龍崇の目の奥に炎がともったかのようである。それに対して答えたのは先ほど龍崇に不遜な態度を示した青年、イムルであった。
「陛下は後宮にお二人の側妃様を所有されていると聞きました。しかしそのように数少ないのでは心もとなくありませんか。貴国の将来にいささか不安を感じます」
「我が国には陛下の血をひく息女もおられる。なんら問題はない」
内心の怒りを外交の場ということで抑制しつつ、しかしその語尾がややきつくなったのは龍崇らしいともいえる。「まあまあ」と、そこは年の功、龍顕が間に入った。
「姫だけではなく、ここにいる龍崇も然り。初代皇帝の血縁はこの国にいまだ数多くおる。それに陛下はまだお若いですしな。貴国の姫の後宮入りの件、非常に光栄な申し出ではあったが、正直に言えば我らはまだ他国民の血を皇家に混入できるほど落ち着いた国ではござらんで。数代先であればぜひにとお受けしたい。だが今はまだ時期早尚」
あごひげをなでつけながら龍顕が言ったそれは、湖国としての最終宣告だった。
そう、芯国はこの機会に、自国の姫の一人を英龍に嫁がせようと目論んでいたのである。三人いる姫の中から誰でもよい、正妃でなくともよいとまで言われていた。アソヤクは三人の姫の姿絵を湖国皇帝に献上していた。
英龍が少し困ったように眉を下げ、しかし毅然と龍顕の言葉を継いだ。
「申し訳ない。我が国は貴国ほどには成熟しておらぬでな。それに貴国の姫君はみな美しいではないか。いやいや、実際、我が国の冬はこの開陽ですら厳しくてな、姫君たちの花の顔をこの国にいることで曇らせてしまえば、それは神に反逆するに等しいことと思われる」
そう言うや、口元だけでははっと笑った。
異母兄のこの対応に、龍崇の溜飲も下がる思いだった。
実は英龍はその姿絵をちらとも見ていない。龍崇が持参したその日、興味なさそうに無言で手を振って拒絶したのである。「湖国にはいない美姫そろいですよ」と声をかけてはみたが、「美しいだけの女はいらない」とにべもなく返された。
龍崇は次に、「芯国と血で繋がるという策は不要と考えているのですか」と問うた。龍崇自身もその歴史上多用される手段を否定しきれないでいたからだ。が、それに対しては「そのような策は表裏一体、得るものも大きいが失うものもまた大きいと考えるほうがよいだろう」と即答された。
そして英龍の次の言葉は、今思いだしても龍崇の胸を熱くする。
『そのような策などなくても我が国は十分強い。それに崇、お前もいる。我らはそれで十分ではないか』
龍崇の瞳の奥の炎はかき消え、いつの間にか柔らかな光が宿っている。その変化を興味深そうに観察していたのは、やはり例の芯国の青年、イムルであった。「ふうん」と口の中でつぶやかれた声は誰にも聞こえはしなかったが、その表情は言葉通りの感情に彩られている。
彼の物怖じしない言動もそうだが、この雅な者たちだけで集う一角において、彼の存在はやや異端だった。齢二十過ぎたばかりと思われる年若さで副官という高位にある点もそうだが、衣の下のその細身は武によって隙なく鍛えあげられているのが明らかである。さすがは武に重きをおく国というべきか、湖国以上に実力主義がまかり通る国ということなのか。そういったことをつい考えさせてしまうような不思議な雰囲気のある人物だ。このような珍客には湖国の皇族とてそうそうお目にかかることはない。