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5.あいつはただの人間なんだ

 腕組みをしうつむき黙り込んだ良季に、隼平もまた難しい顔になった。


「となると……進める先は二つのうちの一つか」


 はっと良季が顔を上げた。


「まさか何か策があるのか」

「策っていうかさあ、理屈で考えればもうこれしかないじゃん。今は侑生の一方的な片想いみたいだし。そしたらさ、侑生が自分でこの恋を叶えたいと決心するか、あきらめるしかないんじゃないの」

「何い? お前、あきらめろだなんてよくもそんなことが言えるな」


 食って掛かろうとした良季を止めたのは、二人の間にいつの間にか現れたその人の発言だった。


「……侑生が恋? それは本当かい?」


 瞬時にその声の主のほうを見た二人は、その人、玄徳の登場に心底度肝を抜かれた。


 玄徳は常のように朴訥とした表情でその場にいた。両手で持っていた酒壺を片手に持ち直すや、空いた手で隼平の前にある杯をとる。そしてにこりと笑いながらその杯を隼平に差し出した。


「飲みなさい」


 その笑顔に逆らうことはできず、隼平はあれだけ欲していた酒を戦々恐々としながら受けた。無言で促され、隼平は満たされた杯をくいっと一息であおった。あんなにおいしかったはずの酒なのに、今は無味無臭にすら感じる。


「ほら、良季もどうだい」


『どうだい』と勧めてはいるが、その目は『飲め』と命令している。笑顔で目力のみですごまれると相当の迫力がある。さすがは武を司る枢密使とでもいうべきだろうか。良季が杯に残っていた酒を干すと、当然のごとくそれは玄徳によって再度満たされた。


 かわるがわる酒をつがれ、飲み、またつがれ……。その間も二人は玄徳の鋭い眼光にさらされ続けた。軽い酔いと畏怖が心身にじりじりとこたえてくる。ただ座っているだけでよかったはずの酒宴が、今は先の見えない合議の場にいるかのようだ。


 さすがの二人もこれ以上は緊張の糸がもたないと思いはじめたころ、計ったかのように玄徳が甘くほほ笑んだ。


「で、侑生が恋しているっていうのは本当なのかい?」


 その笑み、その言い方、すべてが二人の脳内に警報を鳴らした。


(どうする、どうする)

(どうする、どうする)


 その言葉ばかりが馬鹿の一つ覚えのように頭の中を駆け巡る。


 二人はもう十二分に知っていた。玄徳がこのような笑みを浮かべるときは危険なのだ。


 どこまで聞かれてしまったのか。

 どうすればごまかせるのか。


 だが、この上司を煙にまくことなどできるのか?

 いや、そのような技量はどちらにもない。


(……だが侑生のためにはやるしかない)


 そう、二人は李侑生のための枢密院事なのだ。仕えるべきはまずは李侑生。その上司である楊玄徳とて、李侑生の前では二の次でなくてはならない。彼らだけではなく、枢密院事とはそういう存在なのだ。


 たとえその信念のために枢密院事を解雇されたとしても、枢密副使の信頼を失うことに比べれば大したことではない。その覚悟なしに枢密院事は務まらない。たとえ二人の過去に、人生に、深く刺し込まれたくさびがあろうとも――。


 決意した良季が口を開きかけたその時、隼平がにかっと笑った。


 え、と思う間もなく、隼平がぺらぺらと語りだした。


「はい。実は侑生の奴、楊枢密使の娘御を好いているようで」


 表情を変えた良季を隼平は顔色一つ変えずその目だけで制し、そして同じく笑みを消した玄徳に繰り返した。


「李侑生は楊珪己のことを好いているようです」


 三人の間にわずかに沈黙が広がった。玄徳は二度まばたきをし、真意を量るかのように隼平を、そして良季を見た。隼平は笑みを絶やさず、良季は玄徳の視線にすいっとその目をそらした。


 玄徳は振り返るや、侑生を、そして向こうで琵琶をならす一人娘を見た。


 玄徳はしばらく向こうを見ていたが、やがて元の姿勢に戻ると静かにほほ笑んでみせた。


 それはまさに神のごときほほ笑みであった。すべてを理解し受け入れたことが、言葉がなくてもその表情一つで手に取るように分かった。玄徳は二人を交互に見て小さくうなずいた。そして静かに二人の元から離れていった。まるで何事もなかったかのように、ただ手自ら酌をし、たわいもない会話を楽しんだかのように。





 良季が隼平を見ると、その目はまっすぐに侑生のほうに向いていた。柔らかな光の映ったまなざしには幾分かの達成感も見て取れる。


「……お前、わざと言ったな」


 良季の低い声音にも隼平は動じることなく、ただ黙って杯をあおった。そして「わはは」と明るく笑った。


「ああ、やっぱこの酒はうまいなあ」

「なんだそれは」


 睨みつけてくる良季にかまうことなく、隼平は机の上に乗せた両手に顎を置き、侑生を、己の上司を見つめた。


「人の恋路に関わるなんてさ、すごい野暮なことだよね」

「だから何を」

「でもさあ、俺、野暮でもいいから言いたくなったんだ」

「……隼平」

「だって、俺らが言わなかったらどうなる? 侑生には言えっこないよ。いや、あの李侑生だ、いつかは言えるようになるだろうよ。あいつはそういう奴だよ。だけどさ、そのいつかを待っていたら、あいつの恋が実ることはないよ」


 と、空の杯を指だけで回しながら隼平が自嘲気味に笑った。


「決めつけちゃって悪いことしたかなあ? でもさ、俺、さっきは千載一遇の機会だって思ったんだ。あんな好機なかなかないよ。だって、あの楊枢密使と恋の話をしたんだぜ? これはもう、神様が侑生の恋を応援しているんだって、俺、そう思ったんだ。……俺、あいつには幸せになってほしい。誰かのためじゃなくて、自分のために幸せになってほしい。せっかくの恋をあきらめてほしくない……。だってさあ、八年越しの恋なんだぜ。俺には傍観しているだけなんてやっぱりできないや……」


 多くを語り、しかしもうこれ以上の言葉はでてこないようで、隼平は唇をかみしめた。遠く、紫袍を身にまとい枢密副使としてふるまう侑生のことがなぜか痛々しく思えて仕方がない。


 このような湖国一華やかな場で、自分の才能、生き方すべてに絶対の自信を持つかのごとくふるまう侑生。それは誰にでもできることではない。であれば侑生は神に愛された稀有な男なのだろう。


 それでも隼平は切なさに目頭が熱くなるのを抑えることができなかった。


 本当にこの世に神がいるというのであれば、胸倉をつかんで問いただしたい。


 お前に愛されるために、侑生が何を背負い、何を犠牲にして生きてきたか分かっているのか、と。お前に愛されることをあいつがこれまで本心から望んだことがあったのか、と。


 事実、神の申し子のごとき呉坊も、儚くこの世を去ってしまったではないか。神のため、皆のために生きて、苦労ばかりして……最期は安らかな死すら与えられなかったではないか。


 あいつが欲しい物は、本当はもっとちっぽけなものなんじゃないのか。どこまでも手が届かない高い空の向こうなんかじゃなく、すぐそばにあって、手を伸ばせば届くようなものなんじゃないのか。


 あいつをお前に近づけさせようとするな。


 あいつは人間だ。


 あいつはただの人間なんだ……。


 と、その肩が抱かれた。顔を向けると良季と目が合った。


「私も同じだ。私もお前と同じように思っている。相手が誰であれ、侑生には恋をかなえてほしい。なんといっても、俺たちの上司であり可愛い弟分だからな」

「……おう!」


 隼平は泣き笑いの表情で力強くうなずいた。しかし続けて、


「だがこのことはいずれ侑生の耳に入るぞ。その時を覚悟しておくんだな」


 と脅されるや、顔色が変わり、途端に良季に縋り付いた。


「その時は良季ちゃんが助けてくれるよね?」

「知ったことか」

「何それ。ひどい!」

「だが、この恋が叶いさえすれば、お前のやったことは感謝されるだろうよ」

「感謝されたくてやったわけじゃない。俺は」

「侑生のためにやった。そうだろう?」

「そう! 分かってるじゃん」

「であれば、その時がきたらやはりお前自身で償え」

「うわあ、ひどい! 鬼い!」

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