4.神の娘への恋
室内に雅な曲が流れ出すことで、この場に最後まで残っていた緊張の糸までもがゆるゆるとほぐされていくようであった。それを機に、壁際に立っていた侍従が酒壺を手に幾多の官吏の間を歩き始めた。どの杯も先ほどの乾杯で空になっており、酒を注ぐのに目も回るほどに忙しい。
当然、この場では下位の緋袍の官吏の杯はなかなか満たされない。隼平が名残惜しそうに空の杯をぺろりとなめた。このような不作法ができるのは下座にいるからこそだ。下位でかつ年若い二人はもっとも壁際に坐している。この席からでは今日の主役はよく見えないし、もはや出席者たちの歓談やざわめきで、付近の会話しか聞こえない。本当に「招かれただけ」と言ってもよい状況にすでになっていた。
「ああ、いい酒だ。もっとがんがん飲みたいなあ。なあ良季、そう思わない?」
隼平が隣の同僚に問うと、その同僚は遠い方を見ており、しかも口が半開きになっていた。こんなふうに典型的な驚き方をしてみせる良季を見るのはいつ以来か。
「良季ちゃんがそんな顔をするなんて珍しいねえ。なになに、どんなきれいな子がいるのかな?」
隼平は空いた方の手で大皿に盛られたこぶし大の饅頭を掴むと、二口ですべてを口の中に入れた。むしゃむしゃと口を動かしながらもう一つを取る。そして何気ない気持ちで同じ方向、芸事の者が揃う方を見て、隼平の目は一人の人物に釘付けになった。
思わず目をしばたいて、目をこすって、それからもう一度じっくりと見る。けれど何度見ても、どう見方を変えても同じだ。
あそこに座って琵琶を奏でている少女は――。
慌てて飲み込み口を開いた。
「え、ええっ? なあ、あれって珪己ちゃんだよね?」
思わず良季の肩をつかんでその少女のほうを指差していた。その手を良季がぱしっと叩き落とし、隼平はあわや手中の饅頭を取り落としかけた。
「そんなふうに派手に動くな。周りに気づかれるだろう」
「あ、そっか、そうだよね。ごめんごめん」
手の内の物を今度は一口でぱくりと食べ、その手を顔の前に拝むように出して謝罪しながらも、隼平は興奮さめやらぬ様子でいる。咀嚼しながらも珪己のほうから片時も目をそらせない。
「はああ……。あれ、本当にあの子なんだね」
喉を鳴らして飲み込むや、隼平が大きなため息をついた。
「びっくりしたあ。まさか楽士になって、しかもあんなふうに変身するなんて、普通ありえなくない? こんなにびっくりしたのは久しぶりだよ」
するとぱっと顔を輝かせるや、良季にこそこそと耳打ちした。
「あんな珪己ちゃんを見てさ、侑生も喜んでいるんじゃないかな」
対する良季はそれを聞いて眉をひそめた。
「そのような感じではないな。見てみろ」
うながされ、そちらを見ると、確かに侑生は隼平の期待とは程遠い反応を示していた。ただ黙々と酒を飲み、席の近い官吏らと会話をしている。ちょっと首を回せば珪己の姿を見ることができるのに、まったくそちらの方を見ようともしない。そこに珪己がいることを知っていて、なのに敢えて見ないようにしているのだ。
その頑なな所作がかえって侑生の内面をあらわしているように思えて、良季がそっとため息をついた。隼平にもそれは察することができ……残念そうに侑生と珪己を見比べ、そしてがっくりと肩をおとした。
「侑生のやつ、あそこまで恋が下手だとは思わなかった。お兄さんは悲しいよ」
「うむ……何がよくないのだろうな」
「だよね? そこが疑問だよね?」
隼平がとうとう空の杯を机上に置いた。そう、今は酒よりも大切なことがあるのだ。人差し指でとんとんとこめかみを叩きながら斜め上を見る。
「うーん、やっぱり楊枢密使の一人娘だってことで臆しているのかなあ」
「それは一理あるだろう。侑生が楊枢密使を見る目つきは神を崇めるかのようであるからな」
「で、侑生は神の娘に恋してしまって苦悩しているというわけか。崇拝する神への献身とその娘への恋心、どちらをとるべきか……。こりゃまた難しい状況になっちゃって」
「しかし好いた相手が神の娘であることもまたありえる」
「お、良季ちゃんったら、何? 詩的なこと言っちゃってさ」
隼平のからかいを良季は一向に解さない。表情を変えることなく、まだ残っている酒にそっと口をつけた。それでもまだ何か言いたげな、笑いの種を探すかのような隼平の視線に、良季は一度目を合わせ、それから侑生と、そして壁際に坐する楽士らのほうを見た。
一つの趣旨の元に集うこの場に、誰もが異なる心を隠しきれないでいる。皆が皆、輪になってお互いの内面を披露すれば、このような複雑な事態にならないですむのだが……。だがそれができないのもまた人である所以か。
「……恋は頭で考えてするものではない、心でするものだ。だが心を完璧に制御できる人間などいるわけがない。憎い相手に恋をすることもあるし、命がかかった状況でも恋に落ちてしまうことはある。抑えようとしても無理なことは得てしてある。たとえ枢密副使であったとしても、侑生もまた人間なのだからな」




