1.華美な琵琶奏者
「さあて、宴を楽しむとしますか」
牡丹の間へと向かう廊下には幾多の枢密院の官吏の姿があった。しかし昼間の調印式の直前とは異なり、この集団の最後部には緋袍の官吏の姿もある。そのうちの一人、枢密院事・呉隼平のこの軽い発言に、同じ職位にある高良季がむっとした顔になった。
「呉隼平、この宴は楽しむものではないぞ」
釘をさされ、しかし予想通りの返答にへらっと隼平が笑った。
「分かってるって。でも少しくらい楽しんだっていいだろ? 俺ら枢密院事はその場の数合わせみたいなものだしさあ。適当に食って飲んで、あとはきれいな踊り子さんでも堪能しようよ」
そんな隼平をじろりと良季が睨んだ。
彼らのそばにいる他の枢密院事は皆ががやれやれといった具合に苦笑している。
このひときわ年若い枢密院事二人を彼らはまるで弟か息子、または孫のように温かく見守っている。二人の存在は誰にとっても一服の清涼剤であった。そんな年上の同僚の同調するような雰囲気を察し、隼平が活気づいた。
「でしょでしょ。俺ら、こんな華やかな宴に招かれることなんてめったにないし、ここはせっかくの機会を活かしてさ!」
「調子に乗るんじゃない」
渋い顔で良季が発した忠言は隼平の耳には届いていない。
しかし、隼平がこのように心躍らせるのも不思議なことではなかった。本人が言うとおり、軍政を司る枢密院の、しかも緋袍の官吏がこのような宴に招かれることは実際に珍しいことなのだ。
ちなみに中書省では、枢密院事と同位にある郎中(五部の侍郎付の副官)にとってはよくあることで、さらに下位の員外郎でもこの恩恵をしばしば受けている。今回の宴も、中書省の緋袍の官吏が多く招かれている。しかし、枢密院では、緋袍の最高位にある枢密院事のみしか招かれていない。
確かに諸外国との宴に軍政の文官が立ち会う必要はないのかもしれない。軍事のような緊迫した話題については、酒の入る宴のような場ではなく、脇に筆記者を立ち合わせた合議において扱われるべきだろう。しかしそれだけが理由ではなく、湖国における確かな文官優位の風潮がこのような些細に思える事象にまで見え隠れしていた。
良季はそれを感じているから、隼平のように無邪気に喜ぶことはできない。正直気が重いだけだ。芯国は他国の軍政に対して過度に反応する可能性が高いから、宴の間、気軽に何かを口にすることも憚られるだろう。
実際、「芯国の人間には近づかないこと」「もしも話しかけられても軍政については極秘とすること」と直属の上司である李侑生に命じられている。たとえ湖国の言葉であっても、通訳がいない場であっても、下手に口を開かないほうが身のためだ。
牡丹の間につづくもっとも大きな扉の前に着くや、両側に控えていた二人の侍従が厳かに扉に手をかっけた。
出席者が厳選された昼間の調印式とは異なり、宵の宴では多数の人間がこの室に出入りする。そのため、出入り口はこの扉のみに限定し、さらにこの二人の侍従と、さらに傍に控える二人、計四人によって出入りする人間を精査する仕組みとなっている。当然、上級官吏らはその衣と腰に下げた玉の飾りのみならず、姿かたちだけでも入室許可が即座におりるが。
ゆっくりと開かれていく扉――その先に次第に見えてきたのはこの宴の重要性と荘厳さだ。そして実際、室内の様子を目にするや幾人かがその息をのんだ。
日頃から冷静沈着を自負する良季も、その豪勢な室内の様子につかの間心を奪われてしまった。国宝である絵画や置物等は、芸術品に真贋のある良季にとって、それだけでもここに来た価値があると思わせる物ばかりだった。たとえば絵画、色鮮やかな鳥花や湖国の繁栄のほどを示す首都・開陽の風景画を選定する配慮も心憎い。
他にも、所狭しと活けられた大量の花、長机に乗せられた前菜、繊細な食器類はもとより、枢密院事ですらなかなかお目にかかることのない皇族のための豪奢な椅子まで――そこには圧巻の光景が広がっていたのである。
部屋の隅のほうには宴の始まりを待つ芸事の関係者が座している。楽士も歌い手も踊り子も、ただ黙って下を向いてその時が来るのを待っている。控えめに、まるでそこにいないかのように誰もがその存在を消している。呼ばれるその時までは、たとえ煌びやかな美声を有する歌い手も、扇情的ともいえる衣裳をまとう踊り子も、じっと静かに待機するものなのだ。
だから、良季はもちろん、あれほどわくわくと浮足立っていた隼平ですら、そちらの一角へは目を向けようともしなかった。彼ら彼女らの存在は、その時が来たら楽しめばよいものだからだ。
しかし、この枢密院の官吏の集団に置いて、その常識的な判断に背き、無遠慮に、必死にそちらの方を凝視している者が二人いた。良季はそれに気づき、思わず眉をひそめた。彼らはよりにもよって紫袍の官吏、しかももっともそういう行動に縁がなさそうな人物だったからだ。
そのうちの一人は、なんと枢密使の楊玄徳であった。玄徳には八年前の事変以降、女人関係で浮いた話はまったくない。また、人一倍仕事熱心な男であるし、芸事の知識はあってもこうもがつがつと我を忘れてあちらの方に見入るような人物ではないはずだ。……と、その目が一か所に止まったかと思うと、普段は優しく細められている目が小さく見開かれた。しかしそれも一瞬のこと、ふわりと柔らかくほほ笑んだのである。
もう一人、玄徳によく似た行動をとっているのは、良季の上司である李侑生であった。侑生は玄徳よりも控えめではあったが、隠し切れない衝動でもって無意識に視線を動かしていた。そして玄徳同様、同じ一か所でその目をとめるや、切れ長の目を玄徳以上に見開き、かつぽかんと口を小さく開いた。
良季は周囲に不審がられない程度の素早さで侑生に近づくと、その肘で軽く脇腹をこづいた。それでも気づかないようで、まぬけとも思えるその顔が公の場でさらされ続けた。なので良季はこの上司により強い刺激を与えなくてはならなかった。その甲斐あって侑生の体が小さく反応した。
「あ、ああ。……すまない」
「どうしたのです?」
問いながら、良季が二人の興味をひいた特別な一か所に視線をやると、そこには琵琶奏者が集っていた。
龍の刺しゅうがほどこされた厚めの布の上であぐらをかき、琵琶を足の上に乗せている。その琵琶の胴の部分に、顔が触れそうなくらいに誰もが低く顔を伏せている。だから彼らの年恰好や性別は分かっても、影にひそむ奥の顔はまったく見えなかった。
しかし、この場違いな反応をしてみせた二人の共通点といえば、やはり良季に思いつく人物は一人しかいなかった。そして琵琶奏者の中にその人物との共通点を有する者が一人いることにはいた。
が、さすがの良季にもその人物が予想した少女であるかどうか確信は持てなかった。顔が見えないというのもそうだし、官吏補であるその少女が楽士に扮している理由も想像できないからだ。そしてこれが一番の理由であるが――その奏者は先日会話した少女とはあまりにも違いすぎていた。
簡単にいうと、その少女はひどく派手だった。とにかく派手、これだけ派手な装いをした楽士を良季はこれまで見たことがなかったのである。
いや、何も悪いわけではなく、流行を適度に押さえ伝統的な雰囲気を残しつつ斬新なその髪形など、美にうるさい良季には興味深く映ったくらいだ。同じく控えている歌い手や踊り子らの装いともよく調和している。他の女楽士も同様の装いをしているし、きっとこの宴のための特別な趣向なのだろう。
つまり、その少女が装い過ぎていて、素の姿を思い出せる要素が見当たらなかったのである。
良季が小さく首をひねったところで、入室した直後の驚きから冷めつつある枢密院の面々の足が動き出した。彼らにはそれぞれに与えられた席があるのだ。良季が見ると、すでに玄徳も侑生もきちんと彼らの職位にふさわしい表情を取り戻していた。なので良季もすぐにはこの問題に解を見出すことはできなかったのである。