1.あの口づけは間違っていなかった
どこまでも澄んだ陽光が清々しい、晩春の朝。
この日、袁仁威は普段よりも早く起床した。今日は芯国の面々が長く滞在した巨船から降り、一路宮城へと参じる日である。
芯国側は他国の武官が身近にいることを好まない。これはお国柄の性質である。とはいえ船渠から宮城までの道のりを、護衛なしで賓客のみで歩ませるわけにはいかない。万が一何かあれば外交上大きな問題となるからだ。そのため、つかずはなれずの距離で近衛軍第一隊が彼らの周囲に配置されることになっていた。
身支度を整えていると、他人が家の中に入ってきた気配を仁威は感じた。歴代の第一隊隊長の世話係を務めている女だ。その自負と老いがこの女から謙虚さを奪ったのだろう、朝になるといつもこのように何の問いかけもなくずかずかと家内に侵入してくる。
重要な任務にあたる日と知っているのだろう、女はいつもよりも手のこんだ食事をこしらえて持ってきた。愛想なく提供されたそれらを仁威もまた黙って食した。好き嫌いなどない。食べることは責務を果たすための手段でしかない。
家を出ると、偶然、三人の部下に出くわした。彼らは仁威と同じ第一隊所属であり、当然行先は同じである。やや耳にうるさい、若者らしい快活な挨拶を受け、仁威は黙ってうなずいた。そして歩き出す仁威の後ろを三人は当然のごとくついてくる。今日の仁威は落ち着いた様子で、それに部下は一様に安堵しているようであった。つい先日の将軍との一騎打ちはもはや暗黙知となっている。
「隊長、今日は楽しみですね」
仁威の背後から部下の一人が明るく声をかけてきた。
「芯国といえば今でも謎の国の一つですから、そんな芯国の秘密に俺たちがいち早く触れるようで、今日はなんだか不思議な感じがします」
浮き立つ心が言葉の節々に表れている。仁威は部下を背にしたまま小さく笑った。
「楽しみなのはいいが仕事はしっかりやるんだぞ」
「もちろんです。ですがこの開陽で、しかも近衛軍がいる場でもめ事を起こすような度胸のある奴なんていませんよ」
「それも一理ある。しかし本当に手におえない敵というのは、そういう場でこそ動くものなんだ。だから重々心してかかれ」
振り返ると、三人の部下は揃って締まった顔で「はい!」と大きく返事をした。なんとも素直だ。
また前を向いて歩く仁威に、他の部下が話を続ける。
「隊長は今日は朝から夜までずっと任に当たるんですよね。俺たちは昼間だけですけど、隊長は大変ですねえ」
「いや、そうでもない。戦場に比べれば随分と楽だ」
楽だというその言葉は真実をあらわしている。昼、街中では馬をゆっくりと駆って芯国の面々に張り付いているだけでよいし、宮城に入ってからは宴が終わるまで鏡楼の周囲や正門付近一帯に目を光らせているだけのこと。戦う必要もなく、ただ終了時間となるのを待つだけが任のような一日となるだろう。
近衛軍第一隊は丸一昼夜を寝食なしで戦い続けることもできるように訓練されている。であるから、今日のような任務には生ぬるさすら感じる。そう、まるで今日の天気のようだと仁威は思った。少し日差しが強いうえに、空気が幾分湿っているこの天気のようだ。そろそろ夏だな、となぜか季節の移り変わりに意識が向いた。
先ほど部下には心してかかるようにと忠告したが、実際のところ、そのような非常事態が起こるとは仁威も思っていない。それは近衛軍将軍はもとより、枢密院の上級官吏らも同意見であり、決して仁威一人の思い込みではない。であるから、本日の任は第一隊を二つに分けて、昼と夜とで別々の者を勤めさせることにしている。大勢の武官は不要だと判断できる程度の危機感で今日の任は事足りるはずだ。
「今夜は芯国の人たちは宮城内に泊まられるんですよね。でもって明日は宮城から船まで逆戻りの道を俺たちがまた警護するってわけですよね」
「そうだ」
「明日はその道中に姫や文官のお偉いさんも加わって大行列になるんですよね」
「ああ」
「ということは、俺ら武官にとっては明日が一番大事ですね」
「そうだな。姫は初の公務であるし、しかも宮城の外に出られるのも初めてのことらしいからな」
「うわあ、そしたら本当に責任重大ですね。お姫様を俺たちがちゃんと護らないと!」
部下のまっすぐで心地よい声音に、仁威はふと一人の少女のことを思い出した。その少女の瞳は、姫を護るという秘密の任務において一途にきらめいていた……。
途端に先日の口づけのことが思い出された。その瞬間驚きに目を見張った少女の顔、そして自らが吐き捨てた暴言を――。
(……俺はあいつの顔を曇らせてしまった)
あの口づけは間違っていなかった。
そう仁威は己に言い聞かせる。
だが、少女にあのような顔をさせてまでするべきことだったのだろうか。
本当にああせねばならない状況だったのだろうか?
無意識に自身の唇に指で触っていた。己の体を顧みることのない作業ばかりをしているせいだろう、表皮がややめくれてざらついている。皮の厚い自分の指には何ら痛くはないが、あの柔らかい唇には傷をつけてしまったかもしれない。相当乱暴な口づけをしてしまったことは自覚している。だが確かめるすべはない。朝稽古も送り迎えも取りやめたし、しばらくは会う予定もない。
(ああ、だが明日の船渠への道中にはあいつもいるかもしれないな)
いると考えるのが自然だ。そのために珪己は礼部の官吏補となったのだから。
胸がつきりと痛んだ。
会いたくない。
だが、会いたい。
(……会いたい?)
(なぜだ? なぜ会いたいと思ったんだ?)