4.私はただの娘です
英龍の心に浮かぶ数々の思いや気づきのすべてを、珪己は理解できていない。だが、英龍のその口から紡がれる言葉は、英龍のもっとも伝えたいことを語りつくしていた。
だから、珪己は自分の手を握る英龍の両手に、そっと自分のもう一方の手を重ねた。
「陛下」
ささやくような珪己の声は、英龍の耳に届いたのかどうか。英龍は今も頭を下げ、珪己に赦しを乞うたままだ。だから珪己はもう少し大きな声を出した。
「陛下」
少しの間をおいて、英龍がゆるゆるとその顔を上げた。見上げるようなその瞳が揺れて光る。珪己は小さく笑ってみせた。
「父が言っていました。心から謝る人のことを責めてはいけないと」
「父……楊枢密使か」
「はい、そうです。私はその言葉の意味を、今、ようやく分かったように思います。陛下を見ていると、私は八年前のことで陛下に恨みつらみを言いたいとは到底思えません」
そう、八年前の事変の後、変わることなく枢密院に籍を置き、武官のために身を粉して働く父のことを、珪己は長い間理解することができずにいた。
だからある日とうとう、珪己は尋ねた。
なぜあんなひどいことをしでかした人達のために働くのか、と。
その時、父・玄徳が言ったのだ。責めるべき人はどこにもいない、と。少なくとも私はそう思っている、と。今回の事変の主要因は特定の個人にあるのではなく、この国の在り方自体にあるのだ、と。自分はそれを変える力を持っている、だから変えていきたいのだ、と。
そして、こうも言った。
『実はね、あの事変のことで自分に罪があると思いつめて静謐な生き方を選んだ人を何人か知っているんだ。だけどね、私はそんな彼らを見るのが辛いんだよ。罪を背負って、背負うことが生きる目的のように粛々と毎日を過ごす彼らを見るのが辛いんだ。いいかい、珪己。心から謝る人のことを責めてはいけないよ。彼らは十分に苦しんでいる。自分で自分を否定することほど苦しいことはないんだ……』
当時も今も、父の真意のすべてを理解できてはいない。が、今こうして英龍に接し、珪己はその一欠けらが体と心にすっと沁み込んでいくのを感じた。
なぜだろう、あれだけ頭で考えても分からなかったことが今は易しい算術のようだ。父が妻を殺害されてもこうも気丈に枢密院で働き続けることができているのは、誰のことも本心から恨んでいないからなのだ……。
自分自身はまだすべての人に対して同じ感情を持てる自信はない。だが、少なくとも、目の前で打ちひしがれる皇帝に対しては恨みをもとうとは思えなかった。
英龍が唇をきゅっとひきしめた。
「いやよい。余にいくらでも言うがいい。恨みでもつらみでも、罵声でも叫びでもなんでもよい。言ってくれ」
ふふっと珪己が笑った。
「恨みでもつらみでも、ですか。罵声でも叫びでもって。……ふふふ」
「笑いごとではない。遠慮などするな。さあ言ってみよ」
きりりと見つめてくるそのまなざしに、珪己は笑いを止め、しばらく考えた後こう言った。
「では陛下。一言だけよろしいですか」
「お、おう。言ってみよ」
言葉とは裏腹に迷い犬のように瞳を揺らす英龍に、珪己は思った。
(ああ、この人が皇帝陛下でよかった……)
(自分が武官として仕えるべき皇帝がこの人でよかった……)
八年前、母が殺されたことを、この人に対してであれば責めなくてすむ。この人の前では隠すことなく八年前のことを語ることができる。この人の前では自分を偽る必要はない。偽りをひそめて嘘の尊敬を示す必要はない。
「……陛下。私はまだ陛下と数回ほどしかお会いしていませんが、陛下が好きです。皇帝である陛下が、そして陛下の示される皇帝としてのお姿が好きです。ですから陛下はこれからもその覇道を進んでください。私の家のことはそのお心の片隅にしまっておいていただけたら、それだけでもう十分です。陛下のお心を知ることができて……それだけで十分です」
英龍は言葉の真意をはかるように珪己をまじまじと見つめていたが、やがて深くため息をついた。
「楊珪己……そなたはなんと慈悲深い娘だ」
「いいえ、私はただの娘です。ただの、母を亡くし悲しみにくれていた娘です。けれど私は今こうして武芸者となるべく充実した日々を過ごすことができています。そして多くの人は、私のように悲しみを乗り越えて生きていこうとするものなのです。そういう力をどこからか見つけてきて、そうして生きていくことができるものなのです。だから私はただの普通の娘です」
「……そうか。楊珪己、そなたはただの娘なのだな」
「はい!」
ただの娘と言われて喜び返事する珪己に、英龍の心は幾分か軽くなった。それは加害者である英龍に罪を感じさせまいとする所作で、だから英龍は珪己の心に応えた。
英龍は脇に置いていた琵琶を手にとり、軽くつまびいた。
「なあ、今度共に『闘笛』を弾いてみないか。二人で奏でれば、きっと素晴らしい音色が生まれることであろう」
ちらりといたずら気に見上げてきた英龍の視線に、珪己は両手を顔の前で振って強く否定してみせた。
「いいえ、無理です! 陛下に比べたら私なんて全然ですし、陛下とともにだなんて恐れ多くて」
「そのように言うな。余はその時を楽しみにしておるぞ」
からからと英龍が笑った。その指がぽろぽろとつまびく音色には、もはや暗さは感じられなかった。その音色も表情も、英龍が身にまとう眩しいほどの黄袍によく似合っていた。




