市電
市電に乗るのは、久しぶりだった。
目的地は、納屋通りと呼ばれる老舗の商店街と、山形屋デパートがある『いづろ通』
もちろん、Pに送る特産品を選ぶためだ。
時刻は午前十時を過ぎたあたり。電停で五分ほど待ったところで、電車がやってきた。
乗っていたのは、子供連れの母親と、初老の夫婦だけ。
背中に日差しを受けるからなのか、進行方向に向かって右側の席には誰もいなかった。で、僕が座ったのは、そちら側の一番前の席。
東京にいた頃、運転席のすぐ後ろをゲットしたことがある。Pと三浦半島まで遊びに行ったときだ。
どの時代もそうらしいが、見晴らしの良い先頭車両は、鉄道写真を趣味にしている、いわゆる『撮り鉄』と呼ばれる人たちの指定席のようなもの。
だが、どういうわけか、その日に限って、そのような人たちの姿はなかった。
やったね。
天気の良い祭日に、特等席を独占できた幸運に、僕たちは、がっちり握手をした。
あのとき二人とも、カメラと名がつくものは何も持っていなかった。単に春の三浦海岸を見に行こうとしただけだったからだ。
僕とPは、自分が運転手になったようなつもりで、前方の景色に意識を集中していた。
バイクで行けば約二十分。その距離を電車を使うことにしたのには、わけがある。
座席に腰を下ろした僕は、ウエストポーチから、ICレコーダーを取りだした。イヤホンはすでにセットしてある。あとは、車内アナウンスが聞こえる程度に、音量調整をするだけでいい。
耳にイヤホンを装着して、再生ボタンを押した。
他の乗客から見れば、音楽を聴いているように見えるかもしれない。でも、僕が聞いているのは自分の声なのだ。
再生速度をすこし速くしてあるから、自分の声がアニメの声優のように聞こえた。
それを聞きながら、先日、Pが言った言葉を頭の中で繰り返してみた。
『ミスダツのアパートでの一部始終を思い出したとき、お前に何かが起こりそうな気がするんだ』
Pは予言者でもなければ、霊的な能力も持っていないはずだ。単に、僕を安心させようとして、あんなことを口にしたのだろう。
だが、なぜか、あの言葉だけは、信じて良いような気がした。
しかし、昨夜その一部始終を思い出したというのに、何の変化も起こらなかった。
もしかすると、一番大事な記憶が、まだ僕の脳のどこかに隠れているのかもしれない。
それを見つけ出す良い方法はないだろうか。
と考えた末、出てきた案が、
環境を変えてやると、脳が活性化して、その拍子に、抜け落ちていた記憶が蘇ってくるかもしれない。
というものだった。




