3-1
侯爵邸の書庫の空気は羊皮紙と古い革、そして埃の匂いに満ちていた。
わたくしは机上のランプの位置を少し動かし、分厚い綴りを一冊、また一冊と積み上げていく。窓から覗く月の位置は中天に近かったが、灯りを消す気にはなれなかった。
この三日間、頭の片隅に、ある図柄が居座り続けている。
絡みつく蔦の中に、細い三日月。
ミア嬢が胸元で握りしめていた、あの色褪せた守り袋の刺繍。使われている糸は市中には出回らないもので、わたくしの指先の記憶が「王家のもの」と告げていることに、疑いはない。ミア嬢の、「母が王宮で奉公していた頃にいただいた」という発言とも、矛盾はない。
問題は、わたくしがあの意匠を「どこで見たのか」だ。
(見た。絶対に、どこかで見たのよ)
わたくしはショールの端を指先で挟み、そっと擦った。この動作を繰り返せば、脳の奥に沈んだ記憶が浮き上がってくるはずだ、と自分の癖に頼ってみる。
王太子妃教育で得たあらゆる講義の記憶を、順を追って辿り直す。宮廷の慣例、王族の系譜、歴代王后の意匠、宝物庫の目録――
(……あっ)
わたくしの指先が、ぴたりと止まった。
あれは、三年ほど前。王家の宝物庫に初めて立ち入りを許された日のことだ。
王太子妃教育の一環として、歴代王族の遺品や記念の品を拝見した。その中の一つに、桐箱に納められた小さな絹の産衣があった。
『これは、王太子殿下のお生まれになった際の産衣にございます』
案内役を務める女官の、抑揚のない声が耳に蘇る。
その襟元に、細かな刺繍が施されていた。
わたくしはランプを手元に引き寄せて、思い出した図柄を机上に広げた紙に描いてみた。
モチーフは蔦。そして絡み合う蔦の合間から覗く、細い三日月。
(……ええ。間違いなく、同じだわ)
わたくしは椅子の背にゆっくりと身を預け、天井の梁の影を見上げた。ショールを擦っていた指先の動きは、いつの間にか止まっていた。
(同じ図柄の刺繍がもう一枚あった、ということですのね)
そしてその「もう一枚」を、男爵家の娘が、母からの守り袋として胸に下げていた。
◇
既に日付は変わっていたが、わたくしはミア嬢の寝室の扉を叩いた。夜が明ける前に、彼女と共有しておかなければならないことがある。
「……エレナ様?」
寝間着の上に肩掛けを羽織り、ミア嬢は目を擦りながら扉を開けた。琥珀色の瞳が、寝ぼけたまま灯りの中で揺れる。彼女の瞳の色は、蜂蜜を透かしたように柔らかい色だ。
(不思議な色だこと)
ふとそう思ったが、今はそんなことに心を奪われている場合ではない。
「起こしてごめんなさい。書斎に来てくださる? あなたにお話ししたいことがありますの」
ミア嬢は何度か瞬きをして、それから素直に頷いた。この娘は、事情を尋ねる前にまず動く。仕事に追われ、誰かの指図を受けることに慣れている。
書斎の卓にランプを二つ灯し、わたくしは彼女を椅子に座らせた。そして、つい先ほど紙に描いた図柄を、その前に置く。
「これは、あなたの持っている守り袋の刺繍の図柄ですわね」
「はい」
「これと同じものを、わたくし、三年前に見ておりますの。王家の宝物庫で」
ミア嬢の琥珀色の瞳が、驚きに見開かれた。
「宝物庫で……ですか?」
「ええ。同じ図柄、同じ糸、同じ配色。もっとも、それは守り袋ではなく絹の産衣に縫い取られていましたけれど」
わたくしは水差しから水を注ぎ、ミア嬢の前に置いた。彼女はそれに手をつけようとしない。ただ、指先が卓の縁を小刻みに擦っている。それが彼女の「動揺している」サインだと、なんとなく分かってきた。
「産衣紋、と申しますの」
わたくしは声を落として続けた。
「王族のご出産に際して、お付きの女官が無事を祈って刺す守り紋。意匠は、その年ごとに祈祷師が定めます。ですから――」
「同じ図柄は、他の年に存在しない、ということですか」
「そのとおりですわ」
ミア嬢の理解の速さに、わたくしは思わず目を細めた。
「もう一つ。産衣紋は本来、『二枚一組』ですの。今では『もう一枚』のほうは省略されることが多いそうですが、古くからの慣習では一枚は赤子の産衣として、もう一枚は母親が守り袋として持つものだそうです」
ミア嬢がはっと息を呑んだ。
「じゃあ……わたしの母が持っていた守り袋は……」
「本来は、王族の母親が持っているはずのものですわね」
沈黙が落ちた。ランプの芯が、ぱちんと音を立てて爆ぜた。
「エレナ様、お母様は盗みなんて、そんなことしません!」
「わたくし、あなたのお母様を責めてはおりません」
わたくしは彼女の言葉を遮り、静かに続けた。
「ただ、可能性を一つずつ潰しているだけです。潰さなければ、その先へ進めませんもの」
ミア嬢が唇を強く噛んだ。それでも彼女は、まっすぐわたくしを見返してくる。
「お母様は、盗みなんてなさいません」
「ええ、そうかもしれませんわね」
わたくしは努めて穏やかに頷いた。
「王宮でご奉公なさっていた頃の記念にいただいた、というお話でしたわね。そうであれば、お母様に差し上げた方がいらっしゃることになります。その人物が、お母様に本当のことを話していない可能性は?」
「……」
「ミア様。可能性を潰すのは、お母様を守るためでもあるのですよ。もし後で誰かに盗品と決めつけられたら、あなたはお母様を守れますか? わたくしたちが先に手を打っておけば、その追及は跳ね除けられますわ」
ミア嬢は長く黙った後、深く息を吐いた。
「……わかりました」
「明日――もう今日ですわね。日が昇ったら、王宮の資料庫へ参りましょう。お母様のお名前が、王宮の女官の名簿に載っているかどうかを、まず確かめます」
「わたし、入っていいんですか? 王宮の資料庫なんて」
「入れますわ。あなたは、わたくしの侍女という名目で行くのですもの」
ミア嬢は目を丸くした。わたくしは肩をすくめて見せた。
「学園内の揉め事として処理された婚約破棄。学園長の名で受理はされましたけれど、王家からの正式な発表は、まだ一つも出ていませんのよ」
「……あ」
「つまり公的には、わたくしは今もなお王太子殿下の婚約者。王宮の資料庫にも、婚約者としての権限で入れますの」
わたくしは指先でショールの端を擦り、卓上の紙をきれいに畳んだ。
(殿下。あなたがわたくしを守ろうとしたその手心が今、わたくしに王宮の鍵を与えていますわ)




