幕間 王太子レオンハルト
深夜の王太子宮の執務室で、私は机の上に広げた三通の報告書を、もう一度見返していた。
監察官ハンス・ライマーの調査報告。
学園内の複数の生徒の証言記録。
エレナ付き侍女――ハンナと言ったか――の供述書。
三つの経路。互いに面識のない三つの筋が、同じ結論を示していた。もちろん私は疑った。疑い抜いた上で、信じるほかなかった。疑い抜いた、つもりでいた。
だが今夜、彼女は言った。
『存在しない紙で、わたくしはどうやってこの手紙を書きましたの?』
(……エレナ)
私は報告書を机の上に戻した。
彼女の言うことが本当なら――そしてあの検分の手つきを見た限り、本当なのだろう――私は、取り返しのつかないことをしている。
いや、それだけならまだよい。
(もしそうなら、誰かが)
私を、この誤答に導いた者がいる。
三つの経路で私は裏を取った。しかし三つの経路の裏で、それを一つに束ねられる者がいたら? 監察院を動かせて、学園内の生徒を動かせて、侯爵家の侍女を動かせる。そんな人物が――。
脳裏に、いくつかの顔が浮かんでは消えた。宰相。財務評議会の長。近衛の長。母后様の遠戚。
そして一人、どうしても浮かべたくない顔が残った。
(――いや。叔父上だけは、ない)
私は、そこで思考を強引に打ち切った。
止めた自分の指が机の縁を軽く叩いていることに気づき、慌てて手を離した。
十二年前のことを、私は思い出していた。
あれは私が六つの年のことだ。宮廷に、こんな噂が流れた。
「王太子殿下は、陛下に似ておらぬ」
「あの髪の色は、王家の色ではない」
「……本当に、陛下の御子であられるのか」
噂の出所を辿ろうとしてはならぬ、と父上は仰った。母上も同じだった。取り合う価値もないものに取り合えば、それは噂に価値を与えることになる、と。それが政治というものだと、今なら分かる。だがあの頃、六つの子供にすぎない私に、その理屈は届かなかった。
(父上は、否定してくださらない)
(母上も、何も仰らない)
(お二人も、私を疑っておいでなのだろうか)
夜、寝台に潜り込んで泣いていた私の前に、膝をついてくれたのは叔父上だった。
あの静かな人が、噂を流した侍従を宮廷の真ん中で自ら捕らえ、私が後にも先にも聞いたことのない怒声を上げた。翌月、監察院総裁の名において、布告が出された。
『王太子殿下の御血統に関し、流言を為す者は、極刑をもって処断する』
そして、泣いている私の頭に、叔父上の温かい手が置かれた。
「レオンハルト。誰が何と言おうと、お前は私の甥だ。それは誰にも変えられん」
十二年、私はこの記憶を支えに生きてきた。
父上でも、母上でもなく、あの人だけが私のために全身で怒ってくれた。
私はペンを取った。エレナから毎年届く侯爵領産の紙。私はこの紙と、彼女が選んで送ってくれるインク以外で、字を書いたことがない。当たり前のように使ってきた。当たり前だと思ってきた。
(叔父上だけは、ない)
ペン先が、紙に触れる。
書くべき言葉は、たった一行のはずだった。
――エレナ。もし君が何かを掴んだのなら、どうか私に――。
書きかけて、私はまた手を止めた。
この手紙も、いずれ何者かの目を通る。監察院を動かせる人物ならば、王太子宮から出される書簡を確かめる術も当然持っているだろう。
私は書きかけの紙を、暖炉の火にくべた。
そのまま燃え始めた紙が黒く縮んでいくのを、しばらくじっと見ていた。
(叔父上だけは、ない)
そう繰り返す自分の声は、いつからか祈りに近いものになっていた。




