2-3
その日の夕刻、わたくしはミア嬢の下宿を訪ねた。
ミア嬢の住まいは学園の寮ではなく、大通りを少し外れた安下宿だった。木造三階建て、階段の踏板は古く、上るたびに小さな軋み音を立てた。ゾンマーフェルト男爵家が、娘の下宿代さえ十分に出せていないことが、この一段一段からも分かる。
彼女の部屋の前で、わたくしは深呼吸を一つした。
六通の脅迫状のうち、五通は学園長預かりとなり、わたくしの手から遠く離れた。けれど一通だけ、ミア嬢の机に直接入れられたものは、レオンハルト殿下の判断で本人に返されている。「証拠として、君が所持していなさい」と。
殿下は本当に、公正であろうとしている。だからこそ、始末に負えない。
扉が細く開いた。ミア嬢の琥珀色の瞳が、恐る恐るこちらを覗いた。
「エレナ様……」
「お邪魔してもよろしくて?」
「あ、あの、あの」
扉を支えるミア嬢の指先に、わたくしは目を留めた。年頃の貴族令嬢の手ではない。細かい針傷がいくつも残っている。刺繍の内職で家計を支えている手だ。
(……この娘に、美人局の真似事などできるはずがないでしょうに)
わたくしはミア嬢をそっと脇へ寄せ、部屋に入った。
◇
狭い部屋に置かれた曇った鏡台。その引き出しから、ミア嬢は震えながら封筒を取り出した。
わたくしは机の上に脅迫状を置き、持ってきた道具袋から小さな刃物を取り出した。眉を整える時に使う刃を、少し研ぎ直したものだ。
「エ、エレナ様、それは……」
「封蝋を、削らせていただきますわ」
ミア嬢は息を呑んだ。
偽造されたリンデンタール侯爵家の紋章――剣を貫かせた楓の葉――を、慎重に、透けるほどに薄く削っていく。侯爵家に生まれて十八年、毎日のように目にしている紋章だ。輪郭の凹凸まで、指先が覚えている。
削っては指の腹で屑を払い、また削る。三層ほど削ったところで、蝋の色がごく微かに変わった。
(あら?)
下層の蝋の色が、上層と違う。
わたくしは刃を止めて、息を一つ吐いた。そしてもう一層、慎重に削り進める。
そうして現れたのは、上層の下に押し込まれた、もう一つのリンデンタール侯爵家の紋章の一部だった。
左右対称、放射状に五つに分かたれた楓の葉。それを、真っすぐ垂直に貫く剣。押された後に一度削られたとおぼしき痕はあるものの、上層のものと確かに同じ紋。わざわざ押し直す必要は全くない。
違いは紋章ではなく、並べなければ気づけなかった蝋の色だけだった。
……いや、もう一点違う。下層の蝋のほうが、僅かに脆い。そしてこの感触を、わたくしの手はとてもよく知っている。
(……ああ)
わたくしは目を閉じた。推測が、確信へと変わっていく。
(これは、『あの方』の明確な不手際だわ)
偽造者はリンデンタールの紋章を押した後、上から蝋を掛け直し、もう一度同じ紋で封をしている。
なぜ、そんな面倒を? 答えは一つしかない。
下層の蝋が、王家でのみ使われるものだからだ。
王領産の蜜蝋に、特別の顔料を混ぜ込んだもの。どんな名家も裕福な家も、市中の者にこの蝋は使えない。分かる者にしか分からない違いであるが、間違いなく王族のみが持つ特権だった。この脅迫状を用意した人物は、使い慣れた蝋を押してからそのことに気づき、慌てて市井の蝋を重ねたのだ。
そして現在、この蝋を使える王族は、両陛下と王太子レオンハルト殿下、そして――王弟クロード殿下。
わたくしは削り取った上層の蝋の屑を指先で挟み、そっと擦った。
新品の封筒に交換すれば良かったのだ。だが、希少な紙を使ったために、代わりが用意できなかったのだろう。紙の流通を押さえるリンデンタール侯爵家に脅迫状を結びつけるため、紙に拘り過ぎたのが仇となった。
(人を呪わば穴二つ、とはよく言ったものだわ)
◇
「エレナ様、あの、これは……」
「ミア様。あなたに、伺いたいことがございますの」
わたくしは顔を上げ、ミア嬢を見た。彼女はもう、震えていなかった。震えるだけの余力は、既に使い果たしてしまったのかもしれない。
「ゾンマーフェルト男爵家は、ヴェルナー商会にかなりの額の借財がおありですわね」
「……お恥ずかしながら」
「三ヶ月前、返済期限が理由もなく一年延長されていますわね」
「……はい」
「その翌週から、あなたの『被害』の証言が、始まりましたわね」
ミア嬢が、床に膝をついた。
「エレナ様」
「弁解しなくてよろしくてよ」
「しません。しないと、決めていました」
その顔を、わたくしは見下ろした。琥珀色の瞳が、涙も浮かべずに真っ直ぐこちらを見上げていた。
「階段のことも机の傷のことも、全部わたしがされたと、そう証言するように商会の使者から命じられました。わたしは、はい、と答えました。脅迫状は翌朝、机の中にありました。誰が入れたのか、わたしは知りません」
「殿下には?」
「殿下には、聞かれたことに『はい』と答えました。それだけです。……自分からエレナ様の名前は口にしませんでした。断言もしませんでした。ですが」
ミア嬢は、そこで自分の言葉を切った。切ってから、続けた。
「そんなもの、何の抵抗にもなりません。名前を出さなくとも、否定しなくとも、殿下は結論に辿り着かれます。わたしはそれを承知の上で、否定しませんでした」
(――なるほど)
わたくしは頭の中で、そっと帳面を捲る。
この娘は、積極的に嘘を吐いたのではない。ただ、否定しなかった。これは明確に違う罪だ。より重いのか、あるいは軽いのか、わたくしには今はまだ判断しかねる罪。
「罰してください」
ミア嬢が小さく言った。
「わたし、エレナ様に……ずっと憧れていたのです。生徒会で一年半、ずっと。あんなに正確に、公正に仕事をなさる方を、他に見たことがありません」
「……」
「その方を、売ったのです。ですから罰してください。どんな罰でも受けます。ただ、これは私だけの罪なのです」
(――ええ、そうしますとも)
「では、ミア・ゾンマーフェルト男爵令嬢」
「はい」
「あなたに、罰を差し上げますわ」
ミア嬢が、力なく頭を垂れる。
「わたくしの、味方になりなさい」
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
「それが、あなたへの罰です」
◇
それからわたくしは、侯爵家の馬車の中にミア嬢を招き入れた。さすがにこの狭い空間が相手では、盗み聞きのしようもない。
わたくしは、母が動かしている社交界のネットワークを説明した。ヴェルナー商会の帳簿を洗い出すこと。男爵家の借財の証文は、侯爵家が買い取ること。ミア嬢と男爵家の安全は、今夜から侯爵家が保証すること。
ミア嬢は何度も頷き、そして最後には泣き崩れた。恐怖ではなく、安堵の涙だった。
その泣きながら胸元を握りしめる彼女の仕草に、わたくしは目を留めた。
彼女の胸元に、古い麻紐に繋がれた守り袋が下がっている。婚約破棄の夜、大広間でも見たあの袋だ。わたくしは思わず、それに手を伸ばした。
「ミア様。それを、拝見させていただいても?」
「えっ……はい、構いませんが……」
それは手のひら半分ほどの大きさの守り袋だった。表には色褪せてはいるものの、凝った刺繍が施されている。使われている糸を指先でそっと擦ると、ざらりとした感触が指先に伝わった。
(市中には流通していない糸ね)
染料も、金糸の撚り具合も、市井では手に入らないもの。「これは王家御用達の品」――王太子妃教育の中でそう教えられたことを、指先がはっきりと覚えている。
図柄は、蔦。絡みつく蔦の中に細い三日月。
(……これ、どこかで見たことがあるわ)
この図柄を、わたくしは確かに見ている。どこで? 書庫の古い本の挿絵で? 誰かが茶会で広げたハンカチで? あるいは、広間に飾られたタペストリーで?
思い出せない。けれど確実に、見ている。
「ミア様。これは、どこで?」
「わたしの母が……王宮でご奉公していた頃に、記念にいただいたものだと」
「お母様は、王宮に上がっていらしたの?」
「はい、ほんの若い頃だそうですが。えっと、それが何か?」
わたくしは答えられなかった。指先に触れる糸のざらつきが、答えを避けているように感じた。
(どこで、わたくしはこれを見たの?)
答えは今夜のうちには出ない。けれど頭の中の帳面の頁が、勝手にまた一枚、増えていく。
わたくしはミア嬢の手に、そっと守り袋を戻した。
「大切になさいませ。それは、お母様の思い出のお品なのでしょう?」
「はい」
「ならば、それでよろしいの」
馬車が侯爵邸の門をくぐった。今夜から、この娘はわたくしの客人になる。




