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翌朝、わたくしは自室の暖炉の前に膝をついていた。
昨夜は使用人を遠ざけたために、この暖炉に火は入っていない。だから灰は昨日の朝のまま――のはずだった。
(ずいぶんと親切に、燃え残っているわね)
灰の一番上に、親指の先ほどの大きさの紙片が乗っている。
焦げた様子もなく、明らかに新しい。誰かが、これ見よがしに置いていったのだ。
拾い上げ、朝の光にかざす。
(何かの書き損じ。紙は、リストア産の亜麻紙。筆跡は――わたくしのものに見えるわ)
力の入れ方と、跳ねの角度。全体の筆運びだけを見れば、他人の目にはわたくしの字に見えるだろう。けれど、よく観察すれば縦棒の止め方に、書き手の癖がわずかに出ている。わたくしのものとは明らかに違う。
(最後に暖炉に火が入ったのは、昨日の朝。そしてわたくしは昨日一日、筆を執っていない)
なのに、燃え残りには書き損じらしき紙がある。
つまり昨日、わたくしが学園にいる間に誰かがこの部屋に忍び込み、書き損じの切れ端を置いていったことになる。
わたくしは紙片を指先で挟み、そっと擦った。亜麻紙特有の繊維の長さと、紙肌の滑らかさが伝わってくる。宮廷でも侯爵邸でも、まだこの銘柄は使われていないはずだ。そんな珍しい紙を、この部屋に持ち込んだ者――。
(やはり侯爵邸の内側にいる、ということね)
わたくしのいない時間に、わたくしの自室に立ち入ることのできる者。
浮かんだ候補者は、侍女頭、侍女二名、小間使い一名、暖炉掃除の下働き一名の、全部で五人。この五人の中に、最近金回りが良くなった者がいないか。借財や家族の病気、何か商会に握られる弱みを抱えた者がいないか。
わたくしは机の抽斗から便箋を一枚、取り出した。母へ、短い書き付けを書くために。
――お母様へ、至急のお願いがございます。わたくし付きの者たちについて、昨夏からの金の流れを調べていただけますでしょうか。
筆を置くと、わたくしはふと、同じ机の一番下の抽斗に視線を落とした。
あの中に眠っているのは、十通の手紙だけだ。殿下が毎年わたくしの誕生日にだけくださった、公式の贈答品とは別の便り。内容はいつも他愛ない。王宮の庭の話、読み終えた本の感想、季節の鳥のこと。それが十年分、そっと仕舞われている。
(……捨てる理由がなかったから。それだけよ)
わたくしはその抽斗を開けることなく、書き付けを畳んだ。
◇
母の仕事は速かった。
その日の午後には母付きの古参侍女が屋敷の中を一巡し、翌日の夕刻にはいくつかの名の下に二重線が引かれ、一つの名前だけが残った。三日目の朝、母から短い返信が届いた。
――ハンナ。弟が王都の賭場で金貨数十枚の借金。実家が抵当に入れられるも、先週に解除。解除の仲介は、ヴェルナー商会。
わたくしは母の返信を暖炉にくべた。燃え残りがないよう、紙が完全に灰になるまでその様子を見届けた。
ヴェルナー商会。昨夜父の口から出た商会が、別の線からも浮かび上がった。王弟宮の金を預かる商会が、我が家の侍女の弟の借財まで握っている。しかもその商会は、南方リストア産の亜麻紙の流通を独占している。
これだけ揃えば、もう躊躇はいらない。
わたくしは呼び鈴を鳴らした。
◇
「お呼びでしょうか、お嬢様」
入ってきたのは、そばかすの目立つ二十代前半の侍女ハンナ。騎士爵の娘で、三年前から我が家に仕えてくれている。賢く立ち回れる性分ではないが、手先が器用で、実直に仕事をこなす娘だった。
「ハンナ。お座りなさい」
「……はい」
ハンナは椅子に浅く腰掛けた。手が膝の上で震えている。もう、答え合わせは終わっている、という顔だった。
「あなたの弟さん、賭場にかなりの借財があるそうね。その証文を、ヴェルナー商会に握られているのでしょう?」
「……っ」
「けれど先週、あなたのご実家の抵当が解除されているわ。お金の出所は?」
ハンナからの返事はなかった。答えを求めているのではないから、それでよかった。わたくしは灰の中から拾った紙片を、机の上にそっと置いた。
「あなたに落とし物をお返しするわ。暖炉の灰の上に忘れてあってよ」
ハンナが椅子から崩れ落ちた。
「お嬢様、お嬢様、わたしはっ」
「証文は」
言葉を遮る。
「お母様が、買い取ってくださいました」
ハンナの顔がゆっくりと上げられる。驚きと戸惑いと、わずかな安堵がそこにあった。
「あなたも弟さんも、王都暮らしは向いていないわ。明日から、領地の工房へお行きなさい。お給金は悪くないし、とにかく人手が足りないの」
「お嬢様、わたしは――」
「二度と、わたくしの前に出ないで」
ハンナは声を殺して泣き始めた。侯爵家の侍女として鍛えられた娘だ。部屋の外にまで声を漏らしたりはしない。それが、この娘にわたくしが課した最後の職務だった。
(……ヴェルナー商会)
わたくしは頭の中の帳面に、また一つ同じ名を書き加えた。ここ数日で三度目の書き付けだった。




