2-1
侯爵邸に戻ったのは、深夜を回った頃だった。
馬車から降りると、玄関前で灯りが揺れている。侍従長の後ろに細身の影が一つ、腕を組んで立っていた。
「姉上、ずいぶん遅いお戻りですね」
弟のルーカスだった。制服のシャツ姿のまま、着替えもせずに待っていたらしい。まだ十五歳、藍黒の髪と若草色の瞳を持つ、普段は母と父の面影を半分ずつ宿したような弟だ。今夜は、母よりも父の厳しい面影が色濃く浮かんでいる。
「起きて待っていたの? 寝なさいと言ったはずよ」
「寝られるわけがないでしょう。姉上、俺、王太子殿下を殴ってもいい?」
わたくしは足を止めた。
「やめなさい。手が痛むわ」
「姉上、手が痛むのですか? まさか殿下が狼藉を」
「違います。あなたの手の話をしているの。殴ったら、きっとあなたの手の方が痛むでしょ」
ルーカスがぐっと言葉に詰まる。この子は昔から、姉のこういう返しに弱い。
「……そうじゃなくて、心配なんです。姉上が」
「ええ、分かっているわよ」
わたくしは弟の頭を軽く叩いてから、廊下を奥へ進んだ。父の執務室の扉は、わずかに開いている。父がわたくしを待っている、その合図だった。
◇
父アルブレヒト・フォン・リンデンタール侯爵は、執務机の向こうで、藍色に白の混じった前髪の下からわたくしを見つめていた。厳つい顔立ちに疲労の色はない。ただ、視線だけがいつもより鋭く、重く感じられた。
「事の顛末は、既に耳に入っている」
「はい、お父様」
「変わった紙が使われていたそうだな」
「はい。それだけを今夜は口にしてまいりました」
父は静かに頷いた。
正直に告白すると、わたくしは父に頭を下げに来たのだった。侯爵家の力で、この誤解を晴らしていただきたいと。宰相補佐である父ならば、明日にはこの茶番を終わらせることもできよう。誰にとっても醜聞が一番少ない方法。それが、馬車の中でわたくしが出した結論だった。
けれど、この甘えた願いを口にする前に、父のほうが先に口を開いた。
「リンデンタール家は動かん」
「お父様、ですが」
「動けば、潰されかねない」
わたくしは思わず息を止めた。父の瞳には、わたくしに対する哀れみのようなものが浮かんでいた。
「侯爵家が正式に抗議すれば、王家との力関係が崩れる。そうなれば、他家が黙ってはおらん。加えて──おそらく、それこそが相手の狙いだろう」
「……お父様も、お気づきなのですね」
「言うな。この部屋にも、耳はある」
父の指が、机の天板をコツコツと叩いた。それは、この屋敷の中にも相手の息のかかった者がいるという意味だと、すぐに理解した。
「動けば潰れる。動かねば、娘が汚名を被る。見事な『詰み』だ。この盤面を指しているのが誰か、見当はつくか?」
「……はい、お父様」
「だが、口にするな」
父は一度、言葉を切った。それから机の天板を見つめたまま、低い声で続けた。
「十二年前から、私はあの布告に引っ掛かっていた」
「布告、と申しますと?」
「お前が覚えているはずもない。六つの子供に聞かせる話ではなかったからな」
父はこちらを見返しはせず、ただ机の上に広げた書類の端を、指で揃えている。
「監察院総裁である王弟殿下の名で発せられた布告だ。『王太子殿下の御血統に関し、流言を為す者は、極刑をもって処断する』──そんな内容だ」
「レオンハルト殿下のお血筋? しかも極刑、ですか」
「うむ。『極刑』とは過ぎた言葉だ。宮廷の作法としても、重さが数段違う」
わたくしは言葉を失っていた。
王太子妃教育の中で、歴代の布告についても一通り学んでいる。けれど十二年前のその布告については、存在することすら学んでいなかった。幼いわたくしから隠されただけではない。宮廷の側が望んで、記録の隅に押しやった類の文書なのだろう。
「随分と、過剰なお言葉ですのね」
「過剰なのは、言葉だけではない。そもそも布告の形で出されたこと自体が過剰だ。宮廷に不敬な流言が立つのは日常茶飯事だ。いちいち取り合うことなどせぬ。取り合えば、痛くもない腹を探られることとなるからな」
「……」
「それをあえて布告にした。しかも、王弟殿下の御名で」
父はそこで、ようやく顔を上げた。
「宮廷は、この一事であの方の評判を決めた。『王弟殿下は、甥御を誰よりも慈しまれる方だ』とな」
(ああ……)
わたくしは、父の視線の意味を悟った。
王位を狙う野心家が、その対抗相手を庇ってみせる。これほど鮮やかな偽装はない。十二年前の布告は、「王弟殿下は王位に興味がない」という評判を得るための、極めて計算された一手だった。十二年前の父はそのことを疑ったものの、動く材料がなかった。
(お父様はきっと、わたくしよりもずっと深いところまで辿り着いているのね)
父は再び机の天板へと目を落として、続けた。
「お前が婚約者に内定して以降、私があの方を終始警戒していたのは、そのためだ」
「はい、お父様」
「お前の母も、同じことに気づいている。しかし、口にはせん。おそらく、今後も」
「……かしこまりました」
わたくしは深く礼をした。父の顔を見ないよう、父の視線を受けないように。
「もう一つ、お前に伝えておく」
父が、ようやく顔を上げた。
「南方リストア産の亜麻紙は、王都では今、ある商会が独占的に扱っておる」
「その仰り方ですと、その商会は我が家の監督下にはない?」
「ヴェルナー商会。随分前から、王弟宮の財政を預かっている。金だけでなく、裏の雑事まで一手に引き受けておるようだ」
(──ああ)
わたくしの頭の中の帳面に、一本の線が引かれた。あの方と、今夜検分した脅迫状とを、結びつける線が。
「お父様」
「言うな。私の口から出た名ではない」
「はい、お父様」
父は椅子に深く沈み、ゆっくりと息を吐いた。
「家の名は使うがいい。人も金も出す。使用人も、馬車も、金庫の中身も、好きに使え。お前の母も動く。ルーカスも学園でお前の耳になる。だが」
言葉が、そこで一度切れた。
「お前の潔白は、お前が証明しろ。それができぬ娘に、王妃は務まらん」
わたくしは深く一礼した。
「承知いたしました、お父様」
顔を上げると、父はもう机の書類に目を落としていた。それが、わたくしに対する父なりの信頼の証だった。
◇
自室に戻る廊下の途中で、母が待っていた。夜着の上に肩掛けを一枚羽織っただけの姿で、慌てて駆けつけてきたのが分かる。
小柄でふくよかな若草色の瞳を持つ母は、穏やかで優しいだけの人に見える。けれど、それだけではないことを、娘のわたくしが一番よく知っている。
「エレナ」
「お母様」
母は何も言わずに、わたくしの隣を歩いた。そのまま部屋の前まで来て、扉を閉じ、寝台の縁に腰掛ける。手を握るでもなく、抱きしめるでもなく、ただ隣に静かに座った。
「泣きたければ、お泣きなさい。誰にも言わないわ。……ただし、明日の朝までよ」
わたくしは答えなかった。目はずっと乾いていた。どれだけ時間が過ぎても、乾いたままだった。
ただ、一度だけ発した声が震えた。
「……お母様。わたくし、十年……」
「ええ」
「……いえ。何でもございませんわ」
母は頷いて、わたくしの背中をそっと撫でてくれた。ちょうど幼い頃の弟ルーカスにそうしていたように、優しく。
「明日の朝まで。それだけよ」
そう告げて母は立ち上がり、扉の手前で一度だけ振り返った。
「あなたの敵がどなたか、わたくしにも見当はついているわ。けれど、お父様と同じ。口にはしません」
「……お母様」
「わたくしは、わたくしのできることをするわ。あなたは、あなたのできることをなさい。それぞれ別に動く方が、相手も厄介でしょうから」
今度こそ母は部屋を出て行った。扉が静かに閉まる音を聞きながら、わたくしは考えていた。
(お父様もお母様も、察した上で口になさらない。わたくしはお二人にも守られているのね)
わたくしの頭の中の帳面に、新しい頁が一枚、増えた。
この頁にお父様とお母様の名は書かない。それが、娘としての礼儀だった。




