↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「不合格ですわ、殿下」~婚約破棄された令嬢は、十年分の帳簿を締めに参ります~  作者: 宗像 凪
第2章「封蝋は、二度押されていましたの」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/20

2-1

 侯爵邸に戻ったのは、深夜を回った頃だった。

 馬車から降りると、玄関前で灯りが揺れている。侍従長の後ろに細身の影が一つ、腕を組んで立っていた。


「姉上、ずいぶん遅いお戻りですね」


 弟のルーカスだった。制服のシャツ姿のまま、着替えもせずに待っていたらしい。まだ十五歳、藍黒の髪と若草色の瞳を持つ、普段は母と父の面影を半分ずつ宿したような弟だ。今夜は、母よりも父の厳しい面影が色濃く浮かんでいる。


「起きて待っていたの? 寝なさいと言ったはずよ」

「寝られるわけがないでしょう。姉上、俺、王太子殿下を殴ってもいい?」


 わたくしは足を止めた。


「やめなさい。手が痛むわ」

「姉上、手が痛むのですか? まさか殿下が狼藉を」

「違います。あなたの手の話をしているの。殴ったら、きっとあなたの手の方が痛むでしょ」


 ルーカスがぐっと言葉に詰まる。この子は昔から、姉のこういう返しに弱い。


「……そうじゃなくて、心配なんです。姉上が」

「ええ、分かっているわよ」


 わたくしは弟の頭を軽く叩いてから、廊下を奥へ進んだ。父の執務室の扉は、わずかに開いている。父がわたくしを待っている、その合図だった。


    ◇


 父アルブレヒト・フォン・リンデンタール侯爵は、執務机の向こうで、藍色に白の混じった前髪の下からわたくしを見つめていた。厳つい顔立ちに疲労の色はない。ただ、視線だけがいつもより鋭く、重く感じられた。


「事の顛末は、既に耳に入っている」

「はい、お父様」

「変わった紙が使われていたそうだな」

「はい。それだけを今夜は口にしてまいりました」


 父は静かに頷いた。


 正直に告白すると、わたくしは父に頭を下げに来たのだった。侯爵家の力で、この誤解を晴らしていただきたいと。宰相補佐である父ならば、明日にはこの茶番を終わらせることもできよう。誰にとっても醜聞が一番少ない方法。それが、馬車の中でわたくしが出した結論だった。


 けれど、この甘えた願いを口にする前に、父のほうが先に口を開いた。


「リンデンタール家は動かん」

「お父様、ですが」

「動けば、潰されかねない」


 わたくしは思わず息を止めた。父の瞳には、わたくしに対する哀れみのようなものが浮かんでいた。


「侯爵家が正式に抗議すれば、王家との力関係が崩れる。そうなれば、他家が黙ってはおらん。加えて──おそらく、それこそが相手の狙いだろう」

「……お父様も、お気づきなのですね」

「言うな。この部屋にも、耳はある」


 父の指が、机の天板をコツコツと叩いた。それは、この屋敷の中にも相手の息のかかった者がいるという意味だと、すぐに理解した。


「動けば潰れる。動かねば、娘が汚名を被る。見事な『詰み』だ。この盤面を指しているのが誰か、見当はつくか?」

「……はい、お父様」

「だが、口にするな」


 父は一度、言葉を切った。それから机の天板を見つめたまま、低い声で続けた。


「十二年前から、私はあの布告に引っ掛かっていた」

「布告、と申しますと?」

「お前が覚えているはずもない。六つの子供に聞かせる話ではなかったからな」


 父はこちらを見返しはせず、ただ机の上に広げた書類の端を、指で揃えている。


「監察院総裁である王弟殿下の名で発せられた布告だ。『王太子殿下の御血統に関し、流言を為す者は、極刑をもって処断する』──そんな内容だ」

「レオンハルト殿下のお血筋? しかも極刑、ですか」

「うむ。『極刑』とは過ぎた言葉だ。宮廷の作法としても、重さが数段違う」


 わたくしは言葉を失っていた。

 王太子妃教育の中で、歴代の布告についても一通り学んでいる。けれど十二年前のその布告については、存在することすら学んでいなかった。幼いわたくしから隠されただけではない。宮廷の側が望んで、記録の隅に押しやった類の文書なのだろう。


「随分と、過剰なお言葉ですのね」

「過剰なのは、言葉だけではない。そもそも布告の形で出されたこと自体が過剰だ。宮廷に不敬な流言が立つのは日常茶飯事だ。いちいち取り合うことなどせぬ。取り合えば、痛くもない腹を探られることとなるからな」

「……」

「それをあえて布告にした。しかも、王弟殿下の御名で」


 父はそこで、ようやく顔を上げた。


「宮廷は、この一事であの方の評判を決めた。『王弟殿下は、甥御を誰よりも慈しまれる方だ』とな」


(ああ……)


 わたくしは、父の視線の意味を悟った。

 王位を狙う野心家が、その対抗相手を庇ってみせる。これほど鮮やかな偽装はない。十二年前の布告は、「王弟殿下は王位に興味がない」という評判を得るための、極めて計算された一手だった。十二年前の父はそのことを疑ったものの、動く材料がなかった。


(お父様はきっと、わたくしよりもずっと深いところまで辿り着いているのね)


 父は再び机の天板へと目を落として、続けた。


「お前が婚約者に内定して以降、私があの方を終始警戒していたのは、そのためだ」

「はい、お父様」

「お前の母も、同じことに気づいている。しかし、口にはせん。おそらく、今後も」

「……かしこまりました」


 わたくしは深く礼をした。父の顔を見ないよう、父の視線を受けないように。


「もう一つ、お前に伝えておく」


 父が、ようやく顔を上げた。


「南方リストア産の亜麻紙は、王都では今、ある商会が独占的に扱っておる」

「その仰り方ですと、その商会は我が家の監督下にはない?」

「ヴェルナー商会。随分前から、王弟宮の財政を預かっている。金だけでなく、裏の雑事まで一手に引き受けておるようだ」


(──ああ)


 わたくしの頭の中の帳面に、一本の線が引かれた。あの方と、今夜検分した脅迫状とを、結びつける線が。


「お父様」

「言うな。私の口から出た名ではない」

「はい、お父様」


 父は椅子に深く沈み、ゆっくりと息を吐いた。


「家の名は使うがいい。人も金も出す。使用人も、馬車も、金庫の中身も、好きに使え。お前の母も動く。ルーカスも学園でお前の耳になる。だが」


 言葉が、そこで一度切れた。


「お前の潔白は、お前が証明しろ。それができぬ娘に、王妃は務まらん」


 わたくしは深く一礼した。


「承知いたしました、お父様」


 顔を上げると、父はもう机の書類に目を落としていた。それが、わたくしに対する父なりの信頼の証だった。


    ◇


 自室に戻る廊下の途中で、母が待っていた。夜着の上に肩掛けを一枚羽織っただけの姿で、慌てて駆けつけてきたのが分かる。

 小柄でふくよかな若草色の瞳を持つ母は、穏やかで優しいだけの人に見える。けれど、それだけではないことを、娘のわたくしが一番よく知っている。


「エレナ」

「お母様」


 母は何も言わずに、わたくしの隣を歩いた。そのまま部屋の前まで来て、扉を閉じ、寝台の縁に腰掛ける。手を握るでもなく、抱きしめるでもなく、ただ隣に静かに座った。


「泣きたければ、お泣きなさい。誰にも言わないわ。……ただし、明日の朝までよ」


 わたくしは答えなかった。目はずっと乾いていた。どれだけ時間が過ぎても、乾いたままだった。

 ただ、一度だけ発した声が震えた。


「……お母様。わたくし、十年……」

「ええ」

「……いえ。何でもございませんわ」


 母は頷いて、わたくしの背中をそっと撫でてくれた。ちょうど幼い頃の弟ルーカスにそうしていたように、優しく。


「明日の朝まで。それだけよ」


 そう告げて母は立ち上がり、扉の手前で一度だけ振り返った。


「あなたの敵がどなたか、わたくしにも見当はついているわ。けれど、お父様と同じ。口にはしません」

「……お母様」

「わたくしは、わたくしのできることをするわ。あなたは、あなたのできることをなさい。それぞれ別に動く方が、相手も厄介でしょうから」


 今度こそ母は部屋を出て行った。扉が静かに閉まる音を聞きながら、わたくしは考えていた。


(お父様もお母様も、察した上で口になさらない。わたくしはお二人にも守られているのね)


 わたくしの頭の中の帳面に、新しい頁が一枚、増えた。

 この頁にお父様とお母様の名は書かない。それが、娘としての礼儀だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。