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広間の空気が、一瞬にして変わった。
先ほどまでわたくしに向けられていた同情が、方向を変えて非難の声になる。
「なるほど、自作自演か」「確かに、侯爵家は紙の流通を取り仕切っているわ」「わざと自分に不利な紙をお使いになれば、疑いを逸らせるものね」
(……そうね。この方は、馬鹿ではないもの)
思わず、口元が緩みそうになった。
相手が証拠として差し出した知識を、そのまま容疑の根拠へと反転させる。これほど鮮やかな手筋を、失礼ながら殿下がお一人で組み立てられたとは、思えない。殿下は優秀ではあるけれど、その頭脳を悪意には利用できない方だから。つまり、殿下をその考えへ誘導した者がいる。
(さしずめ殿下を操る人形師という役どころね)
わたくしはショールの端を指先で挟み、親指の腹で擦った。
「殿下。もう一点、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「この書状を殿下のもとへ届けたのは、どなたでしょう? ゾンマーフェルト男爵令嬢ご本人でしょうか?」
殿下の後ろで、名前を出されたゾンマーフェルト男爵令嬢の肩がびくりと跳ねた。その姿は、「違う」と必死に訴えているようだった。
「……答える必要はない」
「まあ。わたくしが、その方にも危害を加えるとお思いに?」
「そうは思っていない」
殿下は、一つ息を継いだ。
「ただ、私にこの書状を託した相手の信頼を、裏切るつもりはない」
(……なるほど)
わたくしは、頭の中の帳面に書き留めた。
──殿下の背後には、「守るべき」と決めた誰かがいる。
──そしてその誰かは、きっとこの場にはいない。
「言っておくが、私は君を信じていた。だから三つの経路で裏を取った」
「……」
「だが、すべてが同じ結論を示した」
(三つ、それはそれは。実に丁寧に仕組まれていたのね)
◇
殿下が処分の内容を告げた。
まずは最初の宣言通り、婚約破棄。
ただし、学園の慣例に基づき、この件は「学内の問題」として処理する。王国正規の司直である監察院は介入しない。
わたくしは卒業を認められる。領地へ戻って静かに謹慎するという条件で。
広間のあちこちで、囁きが交錯した。
我が家をよく思わない家の令息令嬢は「甘すぎる」と眉を寄せ、我が家の寄り子筋の家の者は「王太子殿下は、正式な手続きも踏まずに婚約者を晒し者になさった」と憤慨する。
(……黙りなさい)
彼らは何ひとつ、この処分の意味を分かっていない。
学内の不祥事は、学内で裁く。これは学園を創設した初代王による、絶対の慣例だ。もしも殿下が正式な手続きを踏んでわたくしを断罪していたなら、監察院が動く。王太子の婚約者による、王族への害意とも解釈できる脅迫状。リンデンタール侯爵家は最悪、取り潰しとなる。
わたくしは伏せた睫毛の下から、殿下の指先を盗み見た。
その震えは、まだ続いている。
(ああ……そういうことなのね)
わたくしはようやく気づいた。殿下はわたくしを守るために、この場所を選んだということに。
王太子として公正でありながら、婚約者の悪事を「学園内の些細な諍い」の枠へ押し込める。そのための筋書きを、この方は必死に組み立てたのだ。
感謝、すべきなのかもしれない。
もしこれが偽りの罪でなければ、わたくしはただ静かに礼を返したに違いない。
(けれど、殿下)
わたくしの内心の声が、辛辣に告げる。
(善意で人を導く者ほど、始末に負えないものはありませんわ)
殿下は正しく疑い、正しく調べ、正しく判断した。
けれどもその全てが、周到に用意された誤答だった。殿下を誤答へと導くために、紙と封蝋を、あるいは流言を、誰かが全て取り揃えた。
レオンハルト殿下一人を糾弾しても、意味がない。
この嫌疑を晴らしたところで、殿下を操っている黒幕を潰さなければ、同じ手筋で同じ罠が何度でも仕掛けられる。
わたくしは背筋を伸ばし、優雅に一礼した。
「承知いたしました」
貴婦人の微笑みは剣であり盾であると、王太子妃教育で学んだ。だからわたくしは今、殿下に笑みを向ける。言葉とは裏腹に、敗北を受け入れていないことを示すために。
「謹んで、お受けいたします」
広間中が、また、ざわめいた。
「エレナ様が折れた」「侯爵令嬢が」「たったこれだけで」
(……こちらは十年ですのよ、皆様)
未来の王妃となるべく費やした時間を思い返しながら、静かに頭の中の帳面を捲る。
(十年分のわたくしの人生は、それほどお安くありませんの)
今宵ここで一時の勝利を得たところで、採算など取れはしない。
勝つべき時に、勝てる場所で、勝てる相手に、勝つ。
それが、リンデンタールの流儀である。
◇
わたくしは踵を返し、広間の出口へ向けて歩き出した。
歩調も姿勢も、一歩たりとも乱さない。これも、わたくしが十年かけて形作ったものだ。今夜の敗色濃厚の中でも、これらを一つも欠けさせるものか。
途中、ゾンマーフェルト男爵令嬢──ミア嬢の前を通る。
彼女は依然として俯いたまま、胸元で何かを強く握りしめていた。指の間から、古い麻の紐が覗いている。陽に晒されて色の褪せた紐。刺されている刺繍の輪郭は、蔓草だろうか。それを、細いものが斜めに貫くような意匠だった。
(……?)
何かが脳裏に引っかかった。けれど今この場で、その「何か」を手繰り寄せることはできそうもない。わたくしはミア嬢の手前で足を止め、彼女にだけ聞こえる声で言った。
「顔をお上げなさい」
ミア嬢の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……っ」
「あなた、嘘が下手ですわね」
彼女はゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた琥珀色の瞳をわたくしへ向けた。
蜂蜜を薄く溶かしたような、温かい琥珀色だった。
「震え方で分かります。あなたが怯えているのはわたくしではなく、ご自身に対してですのね」
わたくしは、十年の王太子妃教育で身に着けた微笑みの仮面をそっと被る。先ほど殿下に向けた笑みとは違う。もっと柔らかく、それでいて油断のならない、あの笑みを。
「近いうちに、お話に伺います」
ミア嬢は息を呑んだ。声は、出なかった。
わたくしはそのまま歩を進め、大広間を後にした。
背後で、殿下がミア嬢に何か短い言葉をかけているのが聞こえる。慰めているのだろう。あの方はきっと、そういう方だ。
(……安心なさい、ミア嬢)
わたくしがミア・ゾンマーフェルトに会いに行くのは、脅すためでも、責めるためでもない。
彼女を、こちら側へ引き入れるためだ。
◇
侯爵邸への帰路に就く馬車の中は、静かだった。
窓の外を、王都の街灯が流れていく。等間隔に照らされた街並みは落ち着いていて、今夜の茶番とは何もかもが噛み合っていなかった。
わたくしは白いショールの端を、指先で挟んで擦った。そして手持ちの情報を整理する。
――王太子を操れる立場にあり、
――侯爵家の紋章印を偽造でき、
――王都に流通し始めたばかりのリストア産の亜麻紙を手紙六通分揃えられ、
――そして、殿下が庇うほど信頼されている人物。
「……まさか」
頭に浮かんだ名前を、すぐには口にできなかった。そして馬車の車輪の音が、その名前を遠くへ押しやった。
(だとすれば、レオンハルト殿下は最も信じる方に裏切られていることになるわ)
わたくしは一度、深く息を吐いた。そして口の端を、ほんの少しだけ上げた。これは、わたくしがこれまでに学んだ微笑みのどれでもない、今夜初めて浮かべた笑みだった。
「明日から、忙しくなりそうですわね」




