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誰かの衣擦れの音がして、その後に深い沈黙が広がった。
わたくしは反射的に口の端を上げそうになるのを、慎重に押しとどめた。このような場面で、微笑むものではない。少なくとも、王太子妃教育で身に着けた笑みのどれも今、相応しくはない。
殿下の言葉が続く。
「罪状を読み上げる」
罪状。まあ。
「一、ミア・ゾンマーフェルト男爵令嬢に対する、継続的な嫌がらせ。
二、階段上での突き落とし未遂。
三、彼女の私物の破損」
(古典的ね。小説なら、作者に「もう少し工夫を」と苦情を言いたいところだわ)
「四、そして」
殿下の口調が、そこでわずかに硬くなった。
「――脅迫状を送りつけたこと」
その不穏な語句に、広間の空気が波立った。
「『身の程を知れ。次はお前の家族の番だ。あるいは、お前の隣の“尊き方”か』……同様の書状が六通、届いている」
あちこちから息を呑む音が漏れる。誰かが小声で「尊き方とは、まさか殿下のことか?」「なんて恐ろしい」「それが六通も」と繰り返す。
わたくしは瞼を伏せたまま、内心で思う。
(ずいぶんと直截な文面ね。しかも六通も。几帳面な脅迫犯だこと)
それに、家族を脅す? 男爵家の令嬢一人を黙らせるのに、なぜそんな回りくどい手を使う必要が? わたくしが本気で動けば、明日には男爵家の領地に調査官が差し向けられて、何らかの不正が「発見」されることだろう。
わたくしは、「やっていない」と弁じるより先に、「やるならもっと手際よくやる」と考えてしまうらしい。これはきっと、父譲りの性分なのだろう。
その時わたくしの視線が、ふと殿下の指先へ吸い寄せられた。
制服の袖口から覗く、いつも通り整えられた手。
ただ、その指先が微かに震えている。
(あら。殿下、お手が震えていらっしゃるのね)
下手な演技か。それとも、そんなにわたくしが憎いのか。
けれども、そのことを口に出すことはしない。十年間、共に在ったわたくしには、その震えが何を意味するのか、分からないはずがないのだから。
「殿下」
殿下の言葉が途切れるのを待って、わたくしは静かに声を上げた。
「弁明の前に、一つだけお願いがございます」
「申せ」
「その書状を、この手で検めさせていただけますか?」
殿下は青灰色の瞳をわずかに動かし、頷いた。
「構わない」
(……ああ。この方は、公正であろうとなさっている)
従者が運んできた盆の上には、六通の書状と、封蝋の残骸が並べられていた。
わたくしはショールの端を軽く肩に寄せ、最初の一通を手に取った。この場でわたくしがやることは、きっと殿下が期待する「弁明」ではない。
書状をシャンデリアの光にかざす。
紙の繊維の走り方、漉き目の跡、透かしの位置を確認する。
次に指先でそっと挟み、指の腹で紙の肌を撫でる。親指の腹に伝わる、わずかな繊維のざらつき。幼い頃に領内の製紙工房で、見よう見まねで覚えた所作だ。
そして、鼻先へ寄せた。封筒の貼り合わせに使われた膠の匂いを確かめる。使用されている紙は未晒しではなく、丹念に漂白された高級紙だった。
(南方産ね。しかも、かなり新しい紙)
次に封蝋の断面を見る。蝋を溶かして押した後の、内側の重なり具合を確認する。
一通目を検分し終え、指先で挟んで擦り直す。もう一度、光にかざす。
わたくしのこの仕草は、「考えている」時の癖だ。周囲がざわつく気配が、どこか遠くに感じる。
(……この紙、殿下のお好みではないわね)
そこで一度、思考が横道へ逸れた。
「殿下の好み」。なぜ、わたくしはそんな指標を持ち出したのだろう。
ただ、十年間、わたくしは殿下の私室の机に用意された紙を見続けてきた。その紙で書かれた、殿下からの手紙を受け取っていた。その違いだけは、指先だけで分かった。
(──そんなことより)
わたくしはその疑問を、思考の隅へ押しやる。今、ここで突き詰めるべきことではない。
二通目、三通目も同じ紙、同じ筆跡、同じ膠の匂い、同じインクの色、同じ封蝋だった。あまりに揃いすぎている。まるで書かれた時間も場所さえも、「同じ」であるかのように。
(気になる点は、他にもいくつかあるわ。けれど今夜は、一点だけとしましょうか)
わたくしは書状を丁寧に盆へ戻し、深く一礼した。
◇
「殿下。一点だけ伺います」
「言え」
「この書状に使われている紙は、どれも南方リストア産の亜麻紙でございますわね」
殿下は肯定も否定もしなかった。ただ、目線でわたくしに続きを促した。
「この紙が王都で流通し始めたのは、ふた月ほど前のはずです」
「……」
「ですが、この六通のうちの一番古い書状の日付は、半年前となっております」
わたくしはひと呼吸置いてから、静かに続けた。
「存在しない紙で、わたくしはどうやってこの手紙を書いたのでしょう?」
どよめきが、広間を波のように走った。
誰かが「まあ」と息を呑み、誰かが「二か月前?」と繰り返す。
(さて殿下、どうなさいますか?)
ここで殿下が返答に詰まれば、少なくともわたくしは今夜、「潔白の令嬢」としてこの場を去ることができる。けれどそれは、殿下が浅慮な王太子との烙印を押されかねないこととの裏返しだ。
殿下は一瞬、瞼を伏せた。青灰色の瞳の光がつかの間、消える。
そして再び顔を上げると、真っすぐにわたくしを見据えた。
「リンデンタール侯爵家は、王国最大の製紙業を営んでいる」
「左様でございます」
「新しい紙の流通時期を誰よりも正確に知り、誰よりも早く手に入れられる者が、この場に一人いる」
殿下の視線が鋭くなった。
「──君だ」




