↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「不合格ですわ、殿下」~婚約破棄された令嬢は、十年分の帳簿を締めに参ります~  作者: 宗像 凪
第1章「その紙は、二ヶ月前に生まれましたのよ」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/20

1-2

 誰かの衣擦れの音がして、その後に深い沈黙が広がった。

 わたくしは反射的に口の端を上げそうになるのを、慎重に押しとどめた。このような場面で、微笑むものではない。少なくとも、王太子妃教育で身に着けた笑みのどれも今、相応しくはない。


 殿下の言葉が続く。


「罪状を読み上げる」


 罪状。まあ。


「一、ミア・ゾンマーフェルト男爵令嬢に対する、継続的な嫌がらせ。

 二、階段上での突き落とし未遂。

 三、彼女の私物の破損」


(古典的ね。小説なら、作者に「もう少し工夫を」と苦情を言いたいところだわ)


「四、そして」


 殿下の口調が、そこでわずかに硬くなった。


「――脅迫状を送りつけたこと」


 その不穏な語句に、広間の空気が波立った。


「『身の程を知れ。次はお前の家族の番だ。あるいは、お前の隣の“尊き方”か』……同様の書状が六通、届いている」


 あちこちから息を呑む音が漏れる。誰かが小声で「尊き方とは、まさか殿下のことか?」「なんて恐ろしい」「それが六通も」と繰り返す。

 わたくしは瞼を伏せたまま、内心で思う。


(ずいぶんと直截な文面ね。しかも六通も。几帳面な脅迫犯だこと)


 それに、家族を脅す? 男爵家の令嬢一人を黙らせるのに、なぜそんな回りくどい手を使う必要が? わたくしが本気で動けば、明日には男爵家の領地に調査官が差し向けられて、何らかの不正が「発見」されることだろう。


 わたくしは、「やっていない」と弁じるより先に、「やるならもっと手際よくやる」と考えてしまうらしい。これはきっと、父譲りの性分なのだろう。


 その時わたくしの視線が、ふと殿下の指先へ吸い寄せられた。


 制服の袖口から覗く、いつも通り整えられた手。

 ただ、その指先が微かに震えている。


(あら。殿下、お手が震えていらっしゃるのね)


 下手な演技か。それとも、そんなにわたくしが憎いのか。


 けれども、そのことを口に出すことはしない。十年間、共に在ったわたくしには、その震えが何を意味するのか、分からないはずがないのだから。


「殿下」


 殿下の言葉が途切れるのを待って、わたくしは静かに声を上げた。


「弁明の前に、一つだけお願いがございます」

「申せ」

「その書状を、この手で検めさせていただけますか?」


 殿下は青灰色の瞳をわずかに動かし、頷いた。


「構わない」


(……ああ。この方は、公正であろうとなさっている)


 従者が運んできた盆の上には、六通の書状と、封蝋の残骸が並べられていた。

 わたくしはショールの端を軽く肩に寄せ、最初の一通を手に取った。この場でわたくしがやることは、きっと殿下が期待する「弁明」ではない。


 書状をシャンデリアの光にかざす。

 紙の繊維の走り方、漉き目の跡、透かしの位置を確認する。

 次に指先でそっと挟み、指の腹で紙の肌を撫でる。親指の腹に伝わる、わずかな繊維のざらつき。幼い頃に領内の製紙工房で、見よう見まねで覚えた所作だ。


 そして、鼻先へ寄せた。封筒の貼り合わせに使われた膠の匂いを確かめる。使用されている紙は未晒しではなく、丹念に漂白された高級紙だった。


(南方産ね。しかも、かなり新しい紙)


 次に封蝋の断面を見る。蝋を溶かして押した後の、内側の重なり具合を確認する。


 一通目を検分し終え、指先で挟んで擦り直す。もう一度、光にかざす。

 わたくしのこの仕草は、「考えている」時の癖だ。周囲がざわつく気配が、どこか遠くに感じる。


(……この紙、殿下のお好みではないわね)


 そこで一度、思考が横道へ逸れた。


 「殿下の好み」。なぜ、わたくしはそんな指標を持ち出したのだろう。

 ただ、十年間、わたくしは殿下の私室の机に用意された紙を見続けてきた。その紙で書かれた、殿下からの手紙を受け取っていた。その違いだけは、指先だけで分かった。


(──そんなことより)


 わたくしはその疑問を、思考の隅へ押しやる。今、ここで突き詰めるべきことではない。

 二通目、三通目も同じ紙、同じ筆跡、同じ膠の匂い、同じインクの色、同じ封蝋だった。あまりに揃いすぎている。まるで書かれた時間も場所さえも、「同じ」であるかのように。


(気になる点は、他にもいくつかあるわ。けれど今夜は、一点だけとしましょうか)


 わたくしは書状を丁寧に盆へ戻し、深く一礼した。


    ◇


「殿下。一点だけ伺います」

「言え」

「この書状に使われている紙は、どれも南方リストア産の亜麻紙でございますわね」


 殿下は肯定も否定もしなかった。ただ、目線でわたくしに続きを促した。


「この紙が王都で流通し始めたのは、ふた月ほど前のはずです」

「……」

「ですが、この六通のうちの一番古い書状の日付は、半年前となっております」


 わたくしはひと呼吸置いてから、静かに続けた。


「存在しない紙で、わたくしはどうやってこの手紙を書いたのでしょう?」


 どよめきが、広間を波のように走った。

 誰かが「まあ」と息を呑み、誰かが「二か月前?」と繰り返す。


(さて殿下、どうなさいますか?)


 ここで殿下が返答に詰まれば、少なくともわたくしは今夜、「潔白の令嬢」としてこの場を去ることができる。けれどそれは、殿下が浅慮な王太子との烙印を押されかねないこととの裏返しだ。


 殿下は一瞬、瞼を伏せた。青灰色の瞳の光がつかの間、消える。

 そして再び顔を上げると、真っすぐにわたくしを見据えた。


「リンデンタール侯爵家は、王国最大の製紙業を営んでいる」

「左様でございます」

「新しい紙の流通時期を誰よりも正確に知り、誰よりも早く手に入れられる者が、この場に一人いる」


 殿下の視線が鋭くなった。


「──君だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。