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その日の午後、玉座の間で、婚約破棄騒動についての公式な声明が発せられた。
「王太子レオンハルトは、王弟クロードの陰謀を炙り出さんがために、心ならずも婚約破棄の茶番を演じたるものと知れたり。リンデンタール侯爵令嬢エレナは、その筋書きを承知の上で、悪名を身に引き受けたるものなり。両名の忠勤、まことに天晴れである」
(見事な手腕ですこと)
わたくしは深く頭を垂れながら、内心でお父様に似た薄い笑みを一度だけ浮かべた。
(殿下の失態が、一夜で武勲に書き変わりましたわ)
陛下は、玉座から王太子殿下をご覧になった。
「よいな、レオンハルト。これが王というものだ」
殿下は、何も答えなかった。ただ、深く一礼された。
◇
玉座の間を退出した廊下の端で、弟ルーカスが待っていた。学園から駆けつけてきたらしいルーカスは、わたくしを見つけると仁王立ちとなって行く手を塞いだ。
「書き付けが証拠として、俺の名前で提出されたと聞きました」
「ええ。お手柄だったわね」
「なら、俺も査問の間に立ち会わせてくださっても良かったのではないですか」
「それは駄目よ」
「どうしてです?」
「十五歳の子供に問い詰められる悪役。――格が、落ちすぎるもの」
「……姉上、手柄を立てた弟に対して酷くありませんか」
頬を膨らませて抗議する弟を見て、わたくしは思わず笑った。本当に久しぶりに、心から頬を緩ませた気がした。
「学園へお戻りなさい。貴方の仕事は、まだ終わっていないのよ」
「卒業することが俺の仕事、ですよね」
「よくできましたこと」
「それと姉上」
「なあに」
「……よくやりました」
生意気な口調に、少しだけ本気の響きが混じっていた。
わたくしは何も言わずに、弟の頬を軽く小突いた。ルーカスはしてやったりと笑い、廊下の向こうへ駆けて行った。
◇
夕刻、王宮の庭園。
薔薇の生垣が傾いた陽に赤く染まっていた。散策の小道には、他に誰もいない。侍従も、衛兵も、遠くへ下がっている。ミア嬢は、少し先の四阿でぼんやりと空を見上げていた。
わたくしと殿下は、生垣の影で二人だけになった。
「エレナ」
「はい、殿下」
「すまなかった」
「……」
「婚約破棄は、なかったことにされた。私は、君と共に歩みたいと思っている。だが君が望むなら、私の有責で婚約を破棄するよう、必ず陛下を説得する。君は、何一つ傷を負わずに済む。それが、私に今できる精一杯の誠意だ」
わたくしは、しばらく黙っていた。
殿下の申し出は、誠実だった。この方らしい、丁寧で、静かで、ご自分の名誉を差し出すことを厭わない誠意。だからこそ、わたくしは次の言葉を選ばなければならなかった。
「不合格ですわ」
「……エレナ?」
「殿下」
わたくしは、殿下の目を真っすぐに見た。
「わたくし、あなた様の秘密を握りましたのよ。それも、王国を揺るがすような、とびきりの」
「……ああ」
「その女を、野に放つと仰せですの? それは、王のなさることではございませんわ」
「……」
「殿下は、こうお命じになるべきです」
わたくしは口の端を、ほんの少しだけ持ち上げた。
「――『毒杯を煽るか、一生私に尽くすか、選べ』と」
殿下は、しばらく呆然とわたくしを見つめた。それから深く息を吐かれた。
「……エレナ」
「はい」
「一つ、聞いてくれ」
「……はい」
「私はこの十年、君が選んだ紙以外に、字を書いたことがない」
「――」
「あの脅迫状を最初に手にしたとき、私はまず、『紙が違う』と思った」
殿下の声は、静かだった。
「……その意味を、考えもしなかった」
わたくしは言葉を返せなかった。
(わたくしたちは十年もの間、それが何なのか知らないまま、向かい合っていましたのね)
あの脅迫状の紙に、わたくしが最初に覚えた違和感。この方の好みではない、と最初によぎった意味。あれはずっと、わたくしのなかで名前のないままだった。名づけようとして名づけずに来た、この十年間。
殿下はそこで初めて、笑った。
喉の奥から静かに漏れる、乾いた、けれど確かな笑いだった。
「君の言う通り、確かに私はまだ、王ではないな」
「ええ。まだ」
「エレナ・フォン・リンデンタール」
「はい」
「秘密を知る君を、自由にはできぬ。毒杯を煽るか、一生私に――」
殿下はそこで、言葉を切った。
「……いや。やめよう」
「殿下?」
殿下はわたくしの目を覗き込むと、悪戯を仕掛ける子供のように笑った。
「エレナ。……君の強さが、愛おしい。どうか私と結婚してほしい」
「――!」
「優しい言葉をかけられたほうが、人は尽くしたくなるものだろう?」
(ずるい方)
わたくしは思わず視線を生垣の赤い花に落とした。
(十年、一度も愛など囁かなかったくせに)
「……審査中ですわ」
わたくしは目を上げずに、そう殿下に答えた。
「審査中?」
「はい」
「何を審査する」
「あなたが、王におなりになってよいかどうか。これから一生かけて、わたくしが審査いたしますの」
「……厳しいな」
「当然ですわ。十年分の帳簿を持つ女ですもの」
「帳簿か。君らしい表現だな」
その言葉を口にしてから、わたくしはふと立ち止まった。
立ち止まって、ショールの端を指先で挟み、そっと擦った。
「殿下」
「ああ」
「わたくし、十年分のその帳簿を、今日こそ締めるつもりでおりましたの」
「……ああ」
「けれど締める必要が、なくなりましたわ」
殿下は、それには何もお答えにならなかった。ただ、少しだけ頷かれた。それだけで、十分だった。
十年、投資、採算、帳簿、請求書、不合格。生徒会庶務会計のわたくしが、自身の心の在り処を語るのに通してきた語彙。それは単にわたくしの強がりだったと、ようやく分かった。
わたくしは指先を擦ることをやめた。もう、そこで押し潰したいものが、なかった。




