5-2
「では、殿下」
わたくしは、卓の上に置かれた書類のうち、産衣紋の帳面から写した頁をランプの火に近づけた。
「エレナ、それは」
「資料庫にあった記録の写しですわ。原本は、もう資料庫にはございませんでしょうね」
紙の隅から、細く火が這い上がる。
「ミア様のお守りは、もう火にくべさせていただきましたわ。侯爵邸の暖炉で。十八年前のご出産の記録は資料庫に残ってはおりますけれど、書き直された痕はもう見つけられないでしょう。あの後任の官吏の仕事は、とても几帳面そうでしたもの」
「……」
「そして、侍医ヴィルヘルム殿の書き付けは、そもそもこの十年、世に出ておりません」
燃え尽きた頁の灰を、わたくしは掌で軽く払った。
「今夜この部屋でご覧に入れましたものは、証拠と呼ぶにはあまりに脆いものです。証人はおりません。物証も、灰にされたものと、修正済みのものと、出処の不確かなものだけ。ですから殿下、今から先、あなたがご自分の口で仰らない限り、殿下の出自は誰にも証明されることがございません」
「……」
「殿下、お分かりになりまして? わたくしは王国の根幹に関わる重要な証拠を、自分の判断だけで処分いたしましたのよ。国家に対する大罪ですわ」
「エレナ」
「よくご覧になっておいてくださいませ。あなたの妃になるかもしれない女は、この程度のことは平気でいたしますの」
殿下は、頬の筋を微かに動かした。それが笑おうとして失敗した瞬間なのだと、十年隣に立ってきた身には痛いほど分かった。
「殿下」
「……ああ」
「明日の朝、王宮で査問を開いてくださいませ。王弟殿下をご召喚ください」
「……エレナ、しかし、証拠は」
わたくしは口の端に、邪気のない笑みを浮かべた。
「証拠は今、燃やしましたわ。ですから、わたくしたちで作り直しましょう」
「作り直す?」
「ええ。今から鳥を三羽、放ちますの。きっと一羽だけ囀りますわ」
「エレナ、私にはよく分からない喩えなのだが」
わたくしは、ランプの灯りを少し強くした。
「あの方の手足となって動いている方を、わたくしは三人まで絞りましたの。殿下もお心当たりがおありでしょう?」
殿下はしばらく言い淀んでから、三人の名前を挙げた。
「……監察官ハンス・ライマー。ヴェルナー商会会頭ギュンター・ヴェルナー。王弟宮侍従長オズワルド・クレーマー」
「ご名答ですわ」
わたくしは頷いた。
「監察院の目と耳、商会の金、王弟宮の手足。あの方の計画は、この三人の誰が欠けても回りません。ですから、この三人のうちどなたから情報が漏れたか、見分ける細工をしようと思いますの」
「細工というと?」
「殿下には、三通の手紙をお書きいただきます」
わたくしは鞄から封をしていない三通の便箋を取り出した。昨夜のうちに用意していたものだ。
「ご覧くださいませ。文面はほぼ同じですけれど、金庫の内側の文字合わせ錠の『合わせ』だけ、三通で変えてございます」
殿下は、三通の文面を順に手に取った。
「……しろさぎ。くろとび。はいふくろう」
「はい。侵入者が合わせた文字が、そのまま漏洩元となります」
「エレナ。これを、私に書き写せと?」
「お手数ですけれど、文面はこのままで。ただし、相手方にお渡しになる際には──」
わたくしは三通の表に、それぞれ別の宛名を書いた。
「ライマー監察官は、監察官としてお呼び出しくださいませ。『王宮内に不審な侵入痕があり、極秘で調査を依頼したい』と。ヴェルナー会頭は、商会主として。『王太子宮の調度を入れ替えようと思うので、見立ててほしい』と。クレーマー侍従長は、叔父甥の間柄として。『叔父上の体調が近頃優れぬ気がして、傍近くに仕える貴殿に伺いたい』と」
「……」
「それぞれ、全く別の用件で呼び出すのです。その用件を片付けられた後、退出間際にそっと、相談のついでのようにお伝えくださいませ」
わたくしは三通の便箋を、順に殿下の前に並べた。
「『先日、王宮の古い書架から先の王室内侍医ヴィルヘルムの手記が見つかった。未開封のまま、私室の金庫に保管した。三日後に陛下へ献上するつもりだが、万一に備えて金庫の合わせを貴殿にも伝えておく』──と」
「……なるほど」
「監察官には、職務上の信頼を仰ぐ。会頭には、王太子宮への利権をちらつかせる。侍従長には、身内の情に訴える。それぞれが『自分だけが頼られた』と思うようにお伝えになるのが、肝心ですわ」
殿下は三通の便箋を順に見比べ、口の端に乾いた笑いを浮かべた。
「君は、よほど私を信じていてくれるのだな」
「はい?」
「私がこの三人を、素人芝居で欺けるものと」
「殿下」
わたくしは、首を傾げた。
「あなた様は、生まれながらの王太子として宮廷に立ってこられた方ですもの。素人芝居ではございません。これは殿下の、十八年分の職務への信頼です」
殿下はわずかに目を見開き、それから小さく頷いた。
「エレナ。君がいなかったら、私はこの罠を思いつくことはできても、仕掛けられなかっただろう」
「存じておりますわ」
「即答か」
「殿下は、そういう方ですもの」
殿下はゆっくりと息を吐き、便箋を手に取った。
「もう一つだけ、気になることがある」
「何でございましょう?」
「……金庫の中の『手記』は、本物なのか?」
その問いに対し、わたくしは口の端を上げた。
「まさか。わたくしが、昨夜一晩で書いたものですわ。ヴィルヘルム殿の筆跡は、資料庫で侍医の名簿を見たときから、手を尽くして集めましたの。わたくしがされたことを、お返ししませんとね」
殿下は、天井を仰いで笑った。
◇
もう一つ、わたくしは殿下にお伝えしていないことがあった。
わたくしは一つだけ、母に願い出ていた。ライマー監察官を陥落させる材料を、お母様の手札から一枚、お貸しくださいませ、と。
母はすぐに動いた。
ライマー監察官の令嬢が、来春に社交界デビューを控えている。令嬢の後見人は、我が家と繋がりの深い伯爵夫人。そして──ライマー自身が、二年前の宮廷の贈収賄に絡む不始末を母に押さえられていた。大した罪ではない。だが、監察官の職を揺るがすには十分な程度の、小さな瑕疵。
その札を使ったお父様がライマーに、こう囁いたそうだ。
「貴殿がどちらにつくか、よく考えなされ。『あの方』の謀反の企てが為されれば、監察院も巻き込まれよう。……ご令嬢がデビュタントを無事に終えられることを、私も願っておりますぞ」
これで、ライマーはこちら側へ落ちた。
元より彼には忠義もなければ、覚悟もない。あるのは自身と家族の安全と、地位への執着だけだった。父は宰相補佐として、その人柄をよく知っていた。
結局わたくしは、母に切り札を切らせ、父の権力を借りた。
わたくしの帳簿には、両親への大きな借りだけが積みあがっていく。
◇
その夜、王宮の内で、三つの相談が交わされた。
殿下は三人──ライマー、ヴェルナー、クレーマー──を別々に呼び、それぞれの用件を一通り済ませてから、相手の袖に触れるくらいの距離で、ちょっとした内緒話をするように囁かれた。
「ついでに、もう一つ。先の王室内侍医、ヴィルヘルムを覚えているか? 先日、王宮の古い書架から封蝋の掛けられた彼の手記が見つかった。三日後、陛下へ献上する」
保管場所は、王太子自身の私室の金庫。二重構造で、外は鍵、内は文字合わせ錠になっている。殿下は三人にそれぞれ、内側の錠の合わせを、こっそりと打ち明けられた。
監察官ハンス・ライマーには――「しろさぎ」。
商会会頭ギュンター・ヴェルナーには――「くろとび」。
王弟宮侍従長オズワルド・クレーマーには――「はいふくろう」。
「他言は無用だ」
深夜、王太子の私室の窓が静かに開かれた。続いて人影が、窓枠を音もなく越えた。その影は迷うことなく部屋の中のある場所へ向かった。
影は、書架の裏の壁に嵌められた金庫の前に膝をつき、外の鍵穴をあらかじめ型取りしたと思しき鍵で開けた。そして内側の文字合わせ錠に、指を伸ばした。
その指は迷いなく、六つの文字を選び取った。
――は、い、ふ、く、ろ、う。
金庫の扉が、ことり、と音を立てて開いた。
中には重要書類がいくつかと金貨が数枚、王太子の私的な印章などのこまごまとしたものが入っている。それらの中に、封蝋の掛かった薄い綴りが一冊あった。
影はその綴りを選び出すと、来た時と同じように窓から出て行った。
わたくしは隣室の扉の隙間から、その一連を見ていた。すぐ後ろには、殿下が立っていた。
「行きましたわ」
「……止めなくていいのか」
「あら殿下」
わたくしは、殿下を振り仰いだ。
「獲物を追うのは、猟犬のお仕事ですわ。わたくしたちは、待つだけ」




