5-1
わたくしの不穏な発言に対し、殿下は何も言わなかった。
ただ、扉の脇の壁に手をそっと当てた。自分の身体の重心を、壁に預けるような仕草だった。
暖炉の火が、乾いた壁に長い影を落としている。埃と、古い布の匂い。十八年間、ほとんど人の入らなかったこの離れの空気が、殿下の息づかいひとつで動いた。
「壊します、と申しました」
わたくしは、繰り返した。頬に浮かべた微笑みは、そのままにしておいた。
「殿下がお座りの王太子の座も、殿下が守ろうとなさっている王家の形も、殿下がこの十八年、当たり前に信じてこられたご自分の地位も。……全部、一度、粉々に壊させていただきますわ」
「……」
「そして殿下は、その粉々の中からご自分でもう一度、ご自身をお建てにならなければいけません。よろしくて?」
殿下の唇が、少しだけ動いた。何か言おうとして、言葉が追いつかなかったのだろう。それも、この方らしいと思った。判断の速い方ほど、想定外の一撃には一度、身動きが止まってしまうものだ。
わたくしはミア嬢に目配せをした。ミア嬢は頷き、部屋の隅の卓に用意しておいた調査記録の束を、こちらへ運んできた。
「まずは、脅迫状の封蝋から」
わたくしは書き付けを、卓に置いた。これまでの数日間、ミア嬢と共に積み上げてきた事実を淡々と告げる。二重に押されていた脅迫状の封蝋。ヴェルナー商会が握っていた、侯爵家の侍女の実家の抵当とゾンマーフェルト男爵家の借財。学園内の証言者も、同様の事情を抱えていること。
そして十八年前の同じ夜に、同じ王宮の離れで生まれた二人の赤子。ミア嬢の守り袋に刺されていた刺繍と、祈祷師の帳面に記されていた、蔦と三日月の意匠。二冊の出産記録に残された修正痕。王都の高級住宅街に屋敷を購入した侍医。その娘が修道院に持ち込んだ『父の書き付け』と、それを王弟宮の使者が回収した記録。
わたくしは、調査記録の束の隅を指先で揃えた。
「殿下」
「……エレナ」
「あなたは、この国の両陛下の御子ではございません」
「――」
「ゾンマーフェルト男爵ヨハン様と、奥様マルタ様の御長男。それが、あなたの生まれ持ったお立場です」
殿下の指が、扉の壁からゆっくり離れた。掌が宙で行き場を失って、そのまま自身の胸元に添えられる。胸を押さえる仕草。しかし殿下のそれは、痛みを堪えるのでも、誰かを悼むのでもない。そこに自分がいることを、指先で確かめるような動きだった。
わたくしはその指先だけを、まっすぐ見ていた。
◇
「……叔父上、だな」
殿下は、そう零された。
叫ぶような声ではない。呻きでも、糾弾でもない。静かな、けれど確かに芯の折れた声だった。
「そこは、まだ後回しにしていただきたいのですけれど」
わたくしは、口の端を少しだけ持ち上げた。
「殿下。その前に一つ、お尋ねしたいことがございますの」
「……ああ」
「殿下は、あの婚約破棄を宣言された際、三つの経路で裏をお取りになったと仰せでしたわね」
「確かに言った」
「その三つの経路の大元を、この場で並べてみましょうか」
わたくしは、指を立てながら数えた。
「監察官ハンス・ライマー殿の所属は、監察院。監察院を率いておいでの方は、王弟殿下」
「……」
「学園内で証言した生徒たちの家の財政状況を辿ると行き当たるのは、ヴェルナー商会。商会の後ろ盾は、王弟殿下」
「……」
「わたくし付きの侍女に、弟の借財の証文を突きつけたのも、同じ商会」
わたくしは立てた三本の指を、ゆっくり一つに束ねてみせた。
「殿下。情報源は三つあったのではございません。供給元は、たった一つだったのです」
殿下の目が、はっきりと泳いだ。
「殿下は、正しく疑い、正しく調べ、正しく判断されました。例えるなら、井戸を三本お掘りになりました。枯れないように、三方向に、慎重に。ただ、その底に流れる水源は、たった一つだった」
「……」
「殿下、あなたは決して愚かな方ではございません。愚か者に、三つの経路で裏を取るという発想は、そもそも浮かびません。一つを聞いて信じてしまうものですもの」
「……」
「ですから殿下」
わたくしは少しだけ、声を柔らかくした。
「どうか、ご自分をお責めになりませんよう。責める人間を間違えてはなりませんわ」
殿下が目を伏せ、青灰色の瞳を隠した。
暖炉の火が、壁に長い影を落とす。その影の中で、殿下が細く息を吐いた。この方がそんなふうに息をするところを、わたくしは十年で初めて見た。
◇
「……私が六つの年に、宮中に悪意ある噂が流れた」
殿下は、乾いた声で仰った。
「私が陛下に似ていない、というものだ。父上も母上も、その噂を一顧だになさらなかった。王として、正しい判断だ。けれど子供だった私には、両親までもが私を疑っているように感じた」
「はい」
「叔父上だけが、怒ってくださった。宮廷の真ん中で。翌月には監察院総裁の名で、極刑の布告を出された。泣いている私の前に膝をついて、『お前は私の甥だ』と、はっきり仰った」
殿下の唇の端が笑おうとして、けれど笑いに届くことなく元へ戻った。
「……あの人は、すべてご存知だったのだ。知っていて、怒ってみせた。知っていて、布告まで自ら出された。私が泣きやむのを、あの人はどんな顔でご覧になっていたのだろうな」
わたくしは、答えなかった。
十二年前の怒声のうち、どこまでが計算で、どこまでが本物だったのか。それは、あの方自身にさえ、もはや解けない問いなのかもしれない。わたくしにできることは、それを断じないことだけだった。
「私は……」
殿下の声が、そこで一度だけ揺れた。
「王の子ではない。王太子を名乗る資格が、最初からなかった」
「……」
「では、私はこの十八年、何者であったのだろう」
◇
「殿下」
わたくしは、静かに殿下へ歩み寄った。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「……ああ」
「王の正統性は、どこから来ますの?」
「血だろう。王家の血だ」
「では、重ねて伺いますわ」
わたくしは、卓上の調査報告の束を軽く指で押さえた。
「三代前の王は、正しく王家の血を引く方でしたわ。父君は賢君と称えられ、母君も王族のご出身。けれどひどく奢侈を好む方で、飢饉の年にまで穀物を輸出させて、結果として多くの民が餓えました。血筋の上では、正統な王でしたのに」
「……」
「血が正しければ、その治世も正しくなりますの?」
殿下は、顔を上げた。
「殿下」
「……」
「王の正統性を決めるのは、血ではございません」
わたくしは殿下の目をまっすぐ見た。
「あなたがこれからなさる治世ですわ」
「……」
「血は、あなたが何をなさったかを何一つ証明いたしません。けれど治世は、あなたが何者かを余さず証明いたします」
殿下は、しばらくわたくしを見つめていた。それから深く息を吐いた。長く沈めていたものを、ようやく息と一緒に押し出すような、そんな吐き方だった。
「……エレナ」
「はい」
「重い、な」
「はい、重うございます」
「その重さを、私に押しつけるのか」
「はい」
わたくしは、頷いた。
「その代わり、この秘密はわたくしたち三人が墓場まで持って参ります。他の誰にも、決して打ち明けません」
その言葉を口にしながら、わたくしは胸の中で父と母の顔を思い浮かべていた。
二人の名前は殿下の前では出さない。今回の件は、わたくしが勝手に動いた。リンデンタール侯爵家は、何も知らない。
(お父様、お母様。それで、よろしいのでしょう?)
ミア嬢が、殿下に向かって深く頭を垂れた。
「殿下」
彼女が生徒会室の外で自分から殿下に話しかけるのを、わたくしは初めて見た。
「わたしは、ゾンマーフェルト男爵家の娘です。それ以外の、何者でもありません」
殿下は長く、ミア嬢の頭を見ていた。それから、ほんの少しだけ頷いた。何を仰るでもない。それだけでこの場の天秤が、静かに水平に戻った。




