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「不合格ですわ、殿下」~婚約破棄された令嬢は、十年分の帳簿を締めに参ります~  作者: 宗像 凪
第4章「殿下。わたくしは今から、あなたの人生を壊します」

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4-2

 二日目の夕刻、学園から戻った弟のルーカスが、書斎の扉を叩いた。


「姉上、お話が」


 学園から急いで戻ってきたらしいルーカスは、制服の胸元を少しだけ緩めていた。


「どうしたの?」

「ゾンマーフェルト男爵令嬢の『被害』を証言した連中の家、全部洗い終わりました」


 そう言って、机の上に書き付けを置いた。そこには七つの家名が並んでいる。それぞれの家の、ここ半年の金の動きが短く添えられている。


「例の商会から金を借りている家が四つ。商会に恩を売られた家が二つ。残りの一つは、兄が商会で下働きをしています」

「……下働き?」

「俺の同級生の兄なんです。別の同級生が偶然、街で商会に扱き使われているのを見て驚いたと、こっそり教えてくれました。事情までは調べきれませんでした。すみません」


 わたくしは書き付けを目で追った。確かに、七つの家すべてにヴェルナー商会が紐づいている。


「この短時間で、よくここまで」

「俺は姉上の弟ですからね。優秀なのは当然です」

「生意気ですこと」

「はい」


 ルーカスはくしゃりと笑うと、少しだけ声を落とした。


「姉上。たぶん、学園で嗅ぎ回っても、これ以上は出てこないと思います。だから、姉上の調査を手伝いますよ」

「駄目よ、学園へお戻りなさい。あなたの仕事は、学園を卒業すること」

「……」

「でも、この書き付けは助かったわ。お父様にも、お見せしておいてね」


 ルーカスは頷くと、書斎を出て行った。扉が閉まる直前、彼の口元が嬉しそうに緩むのが見えた。


    ◇


 三日目の午後、西日が書斎の窓を斜めに射していた。

 わたくしは机の上に、書き写しを広げていた。ミア嬢は窓辺に立ち、庭の噴水をただ黙って眺めている。


 その横顔を、わたくしはふと見上げた。

 夕陽の色を吸って、ミア嬢の瞳が薄く光っている。栗色の後れ毛が耳の脇でひと筋、風に揺れた。


(……あっ)


 わたくしの指先が、書き写しから離れて宙で止まった。


 王妃アマーリエ様の瞳を、当然わたくしは知っている。王太子妃に内定して以来、幾度もお目通りした。冬の湖面を思わせる、冴え冴えとした琥珀色の瞳。

 ミア嬢の瞳は、それより温かく、柔らかい。二人が並んだとしても、見る者にまったく違う印象を与えるだろう。


 けれど。

 夕陽の中で光っているミア嬢の瞳の、その中心にある琥珀色そのものは――王妃様のそれと、寸分違わない、まったく同じ色だった。


 わたくしはしばらく、その横顔を眺めていた。ミア嬢は気づかない。庭の噴水が立てるさらさらという音だけを、ただ聞いている。


 わたくしは書き写しに目を戻し、指先でショールの端を挟んで、そっと擦った。

 盤面の中心の升目が、静かに埋まっていく感触があった。


    ◇


 母が再び書斎の扉を叩いたのは、それから二日後の夕刻だった。


「集まったわよ」


 母は懐から一枚の紙を取り出し、机の上に広げた。そこには細かい文字で、びっしりと箇条書きが並んでいる。


「元侍医ヴィルヘルム・ラウターの屋敷の現在の名義は、相続人の娘さん――ルイーゼ・ラウター。ただ、ご本人はこの屋敷にお住まいではなく、貸家とされています。ルイーゼ嬢はお父君が亡くなってすぐに、聖アンネ修道院へお入りになったわ」

「聖アンネ修道院、ですか」


 王都近郊にある名門修道院だ。祈りや奉仕活動は行われているものの、実態は裕福な貴族や商人が社交界を離れて静かな生活を送るための場所として知られている。

 ……そしてそこへ入るには、多額の持参金が必要なことも。


「屋敷は手放されていないのでしたわね。では、持参金はどのように工面されたのでしょう?」

「出所はヴェルナー商会。しかも今も継続的に、少なくない額が寄進されているわ。お屋敷の賃料の名目だけれど、いくら高級住宅区といっても多い金額よ」


(そう繋がったのね)


「そして、もっと面白いのはここよ」


 母は二枚目の紙を並べた。修道院の財産目録の写しらしい。


「ルイーゼ嬢が修道院に入るに際して持ち込んだ父君の遺品よ。この最後の一行、ご覧なさい」


 わたくしは目を落とした。細い字で、こう書かれている。


 ――父の書き付け、一綴。


「そして目録には、こう追記されているの」


 母が指の先で、行間をそっと示した。


 ――五二〇年、王弟宮の御使者により御回収済み。


 わたくしはその一行を、じっと眺めた。

 十年前、あの方はわざわざ、元侍医の書き付けを自らの手で回収している。こうして、記録に残ることを知っていても。


(つまり、それが世に出ることを恐れておいでなのね)


「お母様、ありがとうございます」

「使用人たちに感謝なさい。よい仕事をしてくれましたわ」


 母は微笑み、書斎を出ていこうとした。けれど扉の手前で、一度だけ振り返った。


「エレナ」

「はい、お母様」

「わたくしが動くのはここまで。あとはあなたにお任せするわ」


 わたくしは母の若草色の瞳を見返した。母はいつもの通り、ふくよかな顔に穏やかな表情を浮かべていた。けれどその奥には、わたくしよりも先に辿り着いた者の静けさがあった。


「お母様」

「なあに?」

「お母様は、まだ手札をお持ちでいらっしゃるのね」

「ほんの少しだけ。けれどそれは、まだ伏せておきましょうね」


 母は口の端に薄い笑みを浮かべて、扉を閉めて書斎を出て行った。


 わたくしは、机の上の書き付けに目を落とした。

 母は、わたくしが最後の一歩を踏み出すまで、自分の手札を見せないつもりなのだ。見せた瞬間に、わたくしは「母に守られて」この件に辿り着いたことになる。それは許さない、ということなのだろう。


(この件はわたくしの名で片付けろ、ということなのね)


 頭の中の帳面にある母の頁には、やはり何も書き加えないまま置いておくことにした。

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